落合朗風おちあいろうふう
時代 | 昭和時代 |
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カテゴリー | 絵画、書画 |
作品種別 | 日本画 |
プロフィール | 日本画家。東京生。名は平次郎。働きながら川端画学校に学び、のち小村大雲に師事する。院展・官展で活躍したが、川端龍子が主宰する青龍社の方針に共感し同社に参加、社人となる。のち同会を脱退、川口春波らと自由でモダンな芸術を目指し、明朗美術連盟を結成、主宰した。昭和12年(1937)歿、42才。 落合朗風(おちあい ろうふう、1896年8月17日 – 1937年4月15日)は、大正から昭和初期にかけて活躍した日本画家であり、革新的な表現と自由な美術活動を追求したことで知られています。彼の作品は、伝統的な日本画に西洋の技法やモダンな感性を取り入れ、新たな表現を模索したもので、近代日本画の発展に大きな影響を与えました。 生い立ちと画家としての歩み 落合朗風は、東京・芝区(現・港区)に生まれました。本名は平治郎。父親は島根県平田(現・出雲市)出身であり、朗風も幼少期を平田で過ごしました。1914年、平田出身の日本画家・小村大雲に師事し、1916年の第5回文展で《春なが》が初入選。1919年には院展に《エバ》を出品し、横山大観を感嘆させたといわれています。その後も院展や帝展に出品を重ねましたが、既成の美術団体の審査体制に疑問を抱き、脱退しました。 作風と代表作 朗風の作品は、伝統的な日本画に西洋画の技法やモダンな構図を取り入れたもので、特に女性像や仏画、静物画において独自の表現を追求しました。彼の作品には、幼くして亡くした母親への思慕が投影されているともいわれています。 《エバ》(1919年):院展に出品され、横山大観を感嘆させた作品。 《華厳仏》(1931年):青龍社展に出品され、仏画に対する新たな解釈を示した作品。 《涅槃》(1932年):仏画に対する造詣の深さを示し、近代的な解釈を加えた作品。 《浴室》(1933年):モダンな構図と色彩で描かれた女性像。 《白椿》(1937年):絶筆となった作品で、彼の画業の集大成ともいえる。 明朗美術連盟の設立と活動 1934年、朗風は川口春波とともに「明朗美術連盟」を設立しました。この団体は、学歴や派閥にとらわれず、自由な美術活動を目指すもので、既成の美術団体に対する批判的な立場から生まれました。明朗美術連盟は、昭和11年までに4回の展覧会を開催し、34人が所属する団体へと成長しました。しかし、朗風が1937年に急逝したことで、団体は求心力を失い、活動を終えました。 近年の評価と展覧会 朗風の画業は、近年再評価が進んでおり、2024年には島根県立美術館で55年ぶりとなる大規模な回顧展「落合朗風 明朗美術連盟と目指した世界」が開催されました。この展覧会では、彼の初期から晩年までの作品が一堂に会し、彼の革新的な表現と美術に対する情熱が紹介されました。 落合朗風は、伝統と革新を融合させた独自の日本画を追求し、短い生涯の中で多くの優れた作品を残しました。彼の作品は、現在も多くの美術館やコレクターによって所蔵され、その革新的な表現は今なお多くの人々を魅了し続けています。 |