近藤浩一路こんどうこういちろ

時代 昭和時代
カテゴリー 絵画、書画
作品種別 日本画
プロフィール 近藤 浩一路(こんどう こういちろ、本名:浩(こう)、明治17年(1884年)3月20日 - 昭和37年(1962年)4月27日)は、日本の水墨画家・漫画家。明治初期の実業家・教育者である近藤喜則は祖父にあたる。

近藤浩一路(こんどう こういちろ、1884年3月20日 – 1962年4月27日)は、明治から昭和期にかけて活躍した日本画家であり、特に水墨画において独自の画風を確立したことで知られています。洋画から出発し、漫画や挿絵の分野でも活躍した後、水墨画に転じて新たな境地を開拓しました。


生い立ちと教育
山梨県南巨摩郡睦合村(現・南部町)に生まれ、3歳の時に静岡県岩渕村(現・富士市岩淵)に移住しました。韮山中学校(現・静岡県立韮山高等学校)を卒業後、上京して和田英作の白馬会洋画研究所に通い、1905年に東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学しました。在学中から白馬会に出品し、外光派の影響を受けた作品を制作しました。同級生には藤田嗣治や岡本一平がいます。


画業の展開
洋画から漫画・挿絵へ

1910年に東京美術学校を卒業し、第4回文展に油彩画《京橋》を出品しました。1915年には読売新聞社に入社し、政治漫画や挿絵を担当。岡本一平とともに「一平・浩一路時代」と称されるほどの人気を博しました。また、東京漫画会を結成し、漫画界の発展にも寄与しました。


日本画への転向と水墨画の確立

1919年、第6回再興日本美術院展に《朝の日》《夕の日》《霧》を出品し、日本画家としての活動を開始。1921年には日本美術院同人に推挙されました。1922年にはヨーロッパや中国を旅行し、西洋美術や東洋の伝統文化に触れました。この経験が水墨画への関心を深める契機となり、1923年の第10回院展に出品した《鵜飼六題》は、彼の水墨画家としての地位を確立する代表作となりました。


作風と代表作
近藤浩一路の水墨画は、墨の濃淡を巧みに用いて光と影を表現し、幻想的な風景を描き出す独自の画風が特徴です。洋画の技法を取り入れつつ、東洋の美意識を融合させた作品群は、従来の水墨画に新たな表現をもたらしました。

《鵜飼六題》(1923年):水墨画への転向を象徴する代表作。
《京洛十題》:京都の風景を題材にした連作。
《犬山夜漁》:夜の漁の情景を描いた作品。

《桶狭間》:歴史的な戦いの場面を描いた作品。
《御水取八題》:奈良・東大寺の修二会を題材にした連作。
海外での活動と評価
1931年、フランス・パリで個展を開催し、アンドレ・マルローと親交を結びました。マルローの斡旋により、翌年には新フランス評論社の画廊で第2回個展を開催し、ポール・クローデルやポール・ヴァレリー、アンドレ・ジッドら多くの文学者たちに賞賛されました。


晩年と遺産
1936年に日本美術院を脱退し、以後は個展を中心に作品を発表しました。1959年には日展会員となり、再び画壇に登場しました。1962年、東京都港区の慈恵医大東京病院で脳出血のため死去。享年78歳でした。


彼の作品は、東京国立近代美術館、山梨県立美術館、練馬区立美術館などに所蔵されています。また、山梨県南部町には「近藤浩一路記念 南部町立美術館」があり、彼の業績を顕彰しています。

近藤浩一路は、洋画から水墨画への転向を果たし、東洋と西洋の美術を融合させた独自の画風を確立しました。その革新的な表現は、近代日本画の発展に大きく貢献し、現在も多くの人々に影響を与え続けています。