吉川霊華きっかわれいか
時代 | 昭和時代 |
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カテゴリー | 絵画、書画 |
作品種別 | 日本画 |
プロフィール | 吉川 霊華(きっかわ れいか、明治8年(1875年)5月4日 - 昭和4年(1929年)3月25日)は、明治大正時代の日本画家。本名準(ひとし)、通称三郎。 大和絵を基本にしつつ広く東洋の古典芸術に学び、線描、特に流れるような美しい細線を生かした清雅な絵画表現で、「描く」から「塗る」へ重心が移っていく近代日本画壇に独自の存在感を示した。 吉川霊華(きっかわ れいか、1875年5月4日 – 1929年3月25日)は、明治から大正時代にかけて活躍した日本画家で、特に優美な線描を特徴とする白描画(墨線を主体とした描写)で知られています。彼は伝統的な大和絵を基盤に、中国や日本の古典芸術を深く研究し、独自の画風を築きました。 生涯と芸術活動 出自と教育:東京・湯島に儒学者吉川澹斎の三男として生まれ、本名は準(ひとし)、通称は三郎。幼少期から詩文や絵画に親しみ、8歳で浮世絵師・楊洲周延に師事し「延景」の号を授かりました。 画技の習得:狩野派の狩野良信や土佐派の山名貫義に学び、さらに復古大和絵の画家・冷泉為恭に私淑しました。これらの学びを通じて、歴史風俗や有職故実に基づいた作品を制作するようになりました。 金鈴社の結成:1916年、大正時代の美術団体「金鈴社」を鏑木清方、平福百穂、結城素明、松岡映丘らと共に結成。審査や一般の好みに左右されない自由な制作を目指し、霊華はこの場で線描の探究に没頭しました。 晩年の活動:1926年、15年ぶりに官展(帝展)に出品した《離騒》が絶賛され、晩年には京都に別宅を構えるなど、創作活動に専念しました。1929年、腸チフスにより54歳で逝去。 代表作と作風 《離騒》(1926年):中国戦国時代の詩人・屈原の長編詩「離騒」に着想を得た作品で、精霊の動きにもたとえられる美しい線描が特徴。15年ぶりに帝展に出品され、霊華の代表作とされています。 《藐姑射之処子》(1918年):中国の仙女伝説を題材にした作品で、白描にわずかな彩色を施した清雅な画風が際立っています。 《羅浮僊女》(1928年):中国・羅浮山の梅花の精を描いた作品で、衣と冠に金を、唇にわずかに朱を入れただけの白描画ですが、さわやかで崇高な気品がみなぎっています。 《神龍図》(1911年):京都・方廣寺の天井画として描かれた巨大な水墨画で、霊華の初期の大作として知られています。 霊華の作品は、線の美しさを追求し、絵画と書の融合を図るなど、独自の芸術性を確立しました。彼の作品は、東京国立近代美術館や埼玉県立近代美術館などに所蔵されており、展覧会などで鑑賞することができます。 吉川霊華は、近代日本画壇において独自の存在感を示した画家であり、その作品は今なお多くの人々に感動を与えています。 |