荘司福そうじふく
時代 | 1910〜2002年 |
---|---|
標準発表価格 | 470,000 円 |
カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 現代日本画家 |
プロフィール | 父親の赴任先であった長野県松本市で生まれ育つ。女子美術専門学校(現・女子美術大学)師範科日本画部卒業。郷倉千靱に師事。 数学者の荘司篤と結婚後は仙台に移り住む。長女は日本画家の小野恬。結婚後は作家活動を休止していたが、夫の篤が結核に倒れ、画家としての活動を再開。1941年第6回東北美術展(現・河北美術展)に出品。第10回東北美術展で河北美術賞受賞。1951年日本美術院院友、1981年日本美術院評議員。 仙台、東京、横浜と移り住み、戦後は油彩画の要素を取り入れた日本画制作を行った。晩年まで創作意欲は尽きることなく、取材旅行でインド、ネパール、エジプト、ケニアを訪問。特に思い入れの強い東北地方と仏教遺跡、自然との融和を図った作品を数多く発表し、静謐で玄妙な画風を確立した。 2002年10月19日、老衰のため死去。 2010年に女子美術大学より名誉博士号を授与された。 荘司 福(しょうじ ふく、1910年 – 2002年)は、日本の日本画家であり、その生涯を通じて人間や自然と真摯に向き合い、独自の画風を確立しました。長野県松本市に生まれ、女子美術専門学校師範科日本画部(現・女子美術大学)を卒業後、結婚を機に仙台に移住しました。夫との死別後、1941年に河北新報社主催の東北美術展(現・河北美術展)に初入選し、画家としての道を歩み始めました。 1946年には院展に初入選し、郷倉千靱の画塾「草樹社」の塾員として研鑽を積みました。その後、院展で頭角を現し、1964年に日本美術院同人に推挙されました。1967年以降、千葉、東京を経て横浜に居を構え、画業を続けました。 荘司福の作品は、初期の構成的な群像表現から、朽ちゆく物象をモチーフとしたもの、さらに中国やインド、カンボジア、エジプト、ケニアなどへの取材旅行を経て、仏教遺跡やオリエントの神々の造形に着想を得た壮大なイメージへと展開しました。晩年には、自然物や風景を対象とした根源的な世界観の表現へと移行しました。 彼女の代表作には、《刻》(1985年)、《到春賦》(1987年)、《山響》(1990年)などがあり、これらの作品は神奈川県立近代美術館に所蔵されています。 また、義理の娘である荘司貴和子(1939年 – 1979年)も日本画家として活躍しました。東京藝術大学日本画科を卒業後、新制作協会日本画部や創画会で活動し、抽象的な作品で注目を集めましたが、39歳の若さで早世しました。 2019年には平塚市美術館で「荘司福・荘司貴和子展-院展の巨星・創画の新星」が開催され、二人の作品が約50点展示されました。 平塚市公式サイト 荘司福の作品は、現在も多くの美術館やコレクターによって所蔵され、その深い精神性と独特の美学で多くの人々に感動を与え続けています。 |