川端龍子かわばたりゅうし

時代 昭和時代
カテゴリー 絵画、書画
作品種別 日本画
プロフィール 川端 龍子(かわばた りゅうし、1885年(明治18年)6月6日 - 1966年(昭和41年)4月10日)は、戦前の日本画家、俳人。弟(異母弟)は「ホトトギス」の俳人川端茅舍(ぼうしゃ)であり、龍子も「ホトトギス」同人であった。本名は昇太郎。

川端龍子(かわばた りゅうし、1885年6月6日 – 1966年4月10日)は、明治から昭和にかけて活躍した日本画家で、従来の日本画の枠を超えた大胆な作風と「会場芸術主義」の提唱により、近代日本画壇に革新をもたらした人物です。


生涯と芸術的背景
和歌山県和歌山市に生まれた川端龍子(本名:昇太郎)は、幼少期から絵画に親しみ、東京に移住後、白馬会洋画研究所や太平洋画会研究所で洋画を学びました。1913年に渡米し、ボストン美術館で日本の古美術に触れたことがきっかけで、日本画への転向を決意しました。帰国後は日本美術院に参加し、1915年に初入選、1917年には同人に推挙されました。


しかし、彼の自由奔放で豪快な作風は次第に院展と相容れなくなり、1928年に同人を辞退。翌年には独自の美術団体「青龍社」を設立し、以後は同社を舞台に独自の芸術活動を展開しました。


作風と代表作
川端龍子の作品は、従来の日本画にはなかった大画面での表現や、時事性を取り入れた題材が特徴です。彼は「会場芸術主義」を提唱し、展覧会場で観客に強い印象を与える作品制作を目指しました。


代表作には以下のようなものがあります:

《鳴門》(1929年):青龍社の第1回展に出品された大作で、渦巻く海の力強さを描いています。

《爆弾散華》(1945年):戦争の悲惨さを描いた作品で、戦時中の日本画として異彩を放っています。
《草の実》(1931年):装飾経をヒントに制作された作品で、金と黒を基調とした草花の表現が特徴です。

《愛染》(1934年):鴛鴦のつがいを描いた作品で、夫婦の愛情を細やかに表現しています。

晩年と遺産
1950年、妻と息子の死をきっかけに四国八十八ヵ所巡礼を始め、6年をかけて巡礼とスケッチを行いました。 1959年には文化勲章を受章。1963年には自宅の隣に「龍子記念館」を開館し、自作を一般公開しました。1966年、東京都大田区の自宅で逝去。享年80歳でした。


現在の評価と展示
川端龍子の作品は、現在でも高く評価されており、各地の美術館で展示されています。特に、東京都大田区の「龍子記念館」では、彼の代表作を常設展示しており、彼の芸術世界を堪能することができます。

また、2017年には山種美術館で没後50年を記念した特別展が開催され、初期から晩年にいたる代表作が紹介されました。


川端龍子は、伝統的な日本画の枠にとらわれず、大胆な表現と時代性を取り入れた作品で、日本画の可能性を広げた画家として、今もなお多くの人々に影響を与え続けています。