岡千仞おかせんじん

時代 大正時代
カテゴリー 絵画、書画,掛け軸
作品種別 日本画
プロフィール 岡 鹿門(おか ろくもん、天保4年11月2日(1833年12月12日) - 大正3年(1914年)2月18日)は、幕末期の仙台藩士、明治時代の漢学者。名は千仭(せんじん)、字は振衣、初名は敬助、鹿門は号。幕末から明治を代表する漢学者の一人で、多くの門人を数える。

岡千仞(おか せんじん、1833年12月12日〈天保4年11月2日〉–1914年〈大正3年〉2月28日)は、幕末から明治時代にかけて活躍した漢学者・思想家であり、号は鹿門(ろくもん)です。仙台藩の下級武士の家に生まれ、藩校養賢堂や江戸の昌平坂学問所で学びました 。


幕末期の活動
1861年、大阪で松本奎堂や松林飯山と共に私塾「雙松岡塾」を開き、尊王攘夷論を唱えました。この塾には清河八郎や本間精一郎なども関わっており、幕末の尊攘運動に影響を与えました 。


戊辰戦争(1868–1869)では、奥羽越列藩同盟に反対したため、仙台藩内で批判を受けて投獄されましたが、20日ほどで釈放されました 。


明治時代の教育活動と著述
明治維新後、太政官修史局や東京府書籍館(後の東京図書館)で官職に就きましたが、1878年に辞職。その後、東京・芝愛宕下の旧仙台藩邸に私塾「綏猷堂(すいゆうどう)」を開き、教育活動に専念しました。門下生には、原敬(第19代内閣総理大臣)、片山潜(社会主義運動家)、尾崎紅葉(作家)、北村透谷(詩人)、呉秀三(精神科医)など、多くの著名人が含まれます 。


著書には、『尊攘紀事』『米利堅志』『佛蘭西志』『琉球始末』『在臆話記』などがあり、幕末から明治初期の政治・社会情勢を記録した貴重な資料となっています 。

中国視察と『観光紀游』
1884年(明治17年)、岡千仞は中国を訪れ、上海、蘇州、杭州、天津、北京、広州、香港などを巡りました。この視察の記録は『観光紀游』としてまとめられ、明治初期の代表的な中国旅行記の一つとされています 。


北京では、清朝の重臣・李鴻章や学者の張裕釗、李慈銘らと交流し、清仏戦争や科挙制度の弊害について議論を交わしました。岡は、中国の近代化には欧米の学問や制度を取り入れる必要があると主張し、科挙制度の改革を訴えました 。

晩年と評価
晩年には、大陸浪人として中国改革論を説き、興亜会にも関与しました。1914年に没し、従五位を追贈されました。墓所は東京都目黒区の祐天寺にあります 。

岡千仞の蔵書は、子の岡百世によって東京大学に寄贈され、「岡百世文庫」として保存されています。この文庫には、中国哲学、歴史、文学に関する漢籍5,446冊が含まれています 。

岡千仞は、幕末から明治にかけての激動の時代に、教育者として多くの人材を育て、また中国との交流を通じて東アジアの近代化に貢献した人物として評価されています。