下条桂谷げじょうけいこく

時代 大正時代
カテゴリー 絵画、書画,掛け軸
作品種別 日本画
プロフィール 1842-1920 明治-大正時代の日本画家。
天保(てんぽう)13年7月24日生まれ。狩野派をまなび,明治12年佐野常民らと竜池会(現日本美術協会)を結成。16年パリ日本美術縦覧会に出品した。海軍主計学校長,主計大監などを歴任。30年貴族院議員。大正9年12月1日死去。79歳。出羽(でわ)米沢(山形県)出身。本名は正雄。別号に雲庵。


下条桂谷(げじょう けいこく、1842年7月24日 – 1920年12月1日)は、明治から大正時代にかけて活躍した日本画家であり、政治家としても貴族院議員を務めた人物です。本名は下条正雄(げじょう まさお)、号は雲庵。出羽国米沢(現在の山形県米沢市)出身で、狩野派の伝統を継承しつつ、近代日本画の発展に貢献しました。


経歴と画業
初期の修業:米沢藩士の長男として生まれ、藩の絵師である目賀田雲川に絵を学びました。その後、上京して鍛冶橋狩野派に入門し、北宗画を中心に大和絵や南画など多様な画風を習得しました。

官僚としての経歴:明治6年に海軍省少秘書となり、大秘書、少書記官、主計少監、主計大監などを歴任。最終的には海軍主計学校の校長を務めました。退役後の明治30年には貴族院議員に勅選され、政治の場でも活躍しました。

美術界での活動:明治12年、佐野常民らとともに竜池会(後の日本美術協会)を結成し、日本の伝統美術の復興と振興に努めました。また、東京帝室博物館の評議員や日本絵画協会の名誉会員、日本美術協会の終身会員としても活動しました。

作風と代表作
下条桂谷は、狩野派の伝統を基盤としながらも、北宗画や大和絵、南画など多様な画風を融合させた作品を制作しました。その作風は、伝統的な技法と近代的な感覚を併せ持ち、静謐で格調高い表現が特徴です。

1904年のセントルイス万国博覧会では、「雪中の漁村」や「雪中の柳に鷺と松に烏」、「竹林の風景」などの屏風作品を出品し、金賞を受賞しました。

教育と後進の育成
下条桂谷は、後進の育成にも力を注ぎました。佐久間鉄園など多くの弟子を育て、日本画の伝統を次世代に伝えました。彼の指導のもと、多くの画家が日本美術協会展などで活躍し、初期の文展では審査員を務めるなど、旧派の重鎮としての地位を確立しました。

下条桂谷は、伝統と革新を融合させた画風で日本画の発展に寄与し、政治や教育の分野でも多大な貢献を果たしました。その業績は、現在でも高く評価されており、日本美術の歴史において重要な人物の一人とされています。