山本梅荘やまもとばいそう
時代 | 大正時代 |
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カテゴリー | 絵画、書画,掛け軸 |
作品種別 | 日本画 |
プロフィール | 1846-1921 明治-大正時代の日本画家。 弘化(こうか)3年8月13日生まれ。貫名(ぬきな)海屋,三谷雪崦(せつえん)に文人画をまなび,郷里愛知県半田にもどって中国の古画を手本に修業をつむ。山水画にすぐれ,吉嗣(よしつぐ)拝山,児玉果亭とともに地方の三大家といわれた。大正10年2月24日死去。76歳。名は〓(“馬へん”に「冏」)。字(あざな)は子埜。通称は倉蔵。作品に「夏景山水」など。 山本梅荘(やまもと ばいそう、1846年8月13日 – 1921年2月24日)は、明治から大正時代にかけて活躍した日本の南画家であり、愛知県半田市を拠点に活動しました。彼は南宗画(水墨画)の第一人者として知られ、文展(現在の日展)の審査員も務めるなど、当時の日本画壇で高く評価されていました。 生涯と画業 出生と修業:尾張国碧海郡新川鶴ケ崎村(現在の愛知県)に生まれ、通称は倉蔵。別号に半村、半邨、楳荘があります。書画骨董商を営む養父・山本公平のもとで育ち、独学で絵画を学んだ後、京都に出て貫名海屋や三谷雪淵に師事しました。 画風と受賞歴:元・明・清の古画を模写し、王石谷に私淑して山水画を得意としました。明治15年(1882年)の第1回内国絵画共進会で金牌を受賞し、南宗水墨画では梅荘に及ぶ者がいないと評されました。 文展での活動:大正元年(1912年)には中部地方出身者として初めて文展の審査員となり、以後も審査員を務めました。また、日本画会会員としても活動し、地方南画家の三大家の一人として知られました。 作風と作品 山本梅荘の作品は、南宗画の伝統を踏まえつつ、独自の表現を追求したもので、山水画や花鳥画を得意としました。彼の作品は、柔らかな筆致と深い精神性を特徴とし、当時の画壇で高く評価されました。 教育と弟子たち 梅荘は多くの弟子を育て、南画の普及に努めました。主な弟子には、長男の山本石荘や次男の山本香雲、竹内梅嶺、中根雪窓、沢梅谷、平井梅嵓などがいます。彼らは各地で活躍し、南画の伝統を継承しました。 現在の評価と顕彰活動 山本梅荘は、明治から大正期にかけての日本画壇で高く評価された画家ですが、現在では知名度が低下しています。その要因として、南画の衰退や地元での顕彰活動の不足が挙げられています。しかし、彼の作品や業績を再評価する動きもあり、地元では顕彰活動が行われています。 山本梅荘は、南画の伝統を継承しつつ独自の表現を追求した画家であり、多くの弟子を育てるなど、日本画壇に多大な貢献をしました。彼の作品や業績は、今後さらに評価されるべきものです。 |