高橋広湖たかはしこうこ

時代 日本画
カテゴリー 絵画、書画,掛け軸
作品種別 日本画
プロフィール 日本画家。熊本県生。雲谷派の画家観松堂雪長の長男。本姓浦田、のち名妓今紫の養子となり、高橋姓を名のる。名は久馬記。初め父に画の手ほどきをうけ、のち犬塚松琴に南画を、さらに松本楓湖の安雅堂画塾に学ぶ。巽画会結成に参加。歴史画に多くの秀作を残す。明治45年(1912)歿、36才。

高橋廣湖(たかはし こうこ、1875年–1912年)は、明治時代に活躍した日本画家で、熊本県山鹿市の出身です。彼は雲谷派の画家・浦田長次郎の長男として生まれ、幼少期から父に絵画の基礎を学びました。17歳のときに南画家・犬塚松琴に師事し、20歳で熊本市に出て教師を務めていた際、女優・高橋こうと出会います。彼女の勧めで上京し、松本楓湖の画塾「安雅堂」に入門しました。その後、彼女の養子となり「高橋」姓を名乗るようになります。


高橋廣湖は、日本美術院や巽画会、紅児会、二葉会などの美術団体に参加し、歴史画を中心に活動しました。彼の作品は写実性と表現性を重視し、朦朧体の手法や西洋画の遠近・陰影法なども取り入れ、革新的な試みに挑戦しました。また、裸婦を描くなど前衛的な制作活動も展開しました。彼の実力は岡倉天心にも認められ、明治42年の日英博覧会では内務省から出品を依頼されるなど、画壇での地位を確立していきました。

東京では浅草、下谷、湯島と移り住み、千住の人々とも親しく交流しました。千住の支援者たちは「芳廣会」という団体を結成し、彼の活動を支援しました。彼の没後に開催された遺墨展では、芳廣会から多くの作品が出展され、彼と千住の人々との深い親交がうかがえます。平成29年には、足立区立郷土博物館で「高橋廣湖-千住に愛された日本画家-」展が開催され、彼の画業が紹介されました 。


1912年、37歳の若さで朝鮮・満州への取材旅行中に猩紅熱に罹患し、帰国後に急逝しました。彼の夭折は惜しまれますが、その革新的な作品と活動は、明治期の日本画壇において重要な足跡を残しました。