内海吉堂うつみきちどう

時代 大正時代
カテゴリー 絵画、書画
作品種別 日本画
プロフィール 日本画家。福井県生。内海椿水の子。名は復、別号に海復。はじめ森寛斎・塩川文麟の門に円山・四条派を学ぶ。のち南画に転じ、度々中国に渡る。日本南画協会の結成に参加、内国勧業博覧会・日本絵画協会等で褒状受賞の他、日本美術協会・文展でも入選、京都画壇で活躍した。花鳥画を得意とした。大正14年(1925)歿、74才。

内海吉堂(うつみ きちどう、1850年 – 1923年)は、明治から大正時代にかけて活躍した福井県敦賀市出身の南画家(文人画家)です。彼は京都画壇で高い評価を受けながらも、長らく一般にはあまり知られていませんでしたが、近年再評価が進んでいます。

生涯と画業
内海吉堂は、画家一家の三代目として生まれ、幼少期に滋賀県多賀の医師・小菅兎峰のもとで漢学を学びました。その後、幕末から明治初期にかけて活躍した日本画家・塩川文麟に師事し、絵画の技術を磨きました。

明治10年(1877年)から6年間、東本願寺の上海別院を頼りに中国へ渡り、現地の文人たちと交流を深めました。帰国後は京都で南画家として活動し、京都青年絵画研究会や日本南画協会などの美術団体に関わり、展覧会にも出品、受賞するなど、同時代の画家たちと共に活躍しました。

また、円山四条派の幸野楳嶺らとともに、東本願寺御影堂の障壁画制作を任されるなど、その実力は高く評価されていました。

作品と評価
内海吉堂の作品は、上品で華やかな花鳥画から、晩年の貫禄ある山水画まで多彩であり、繊細な筆致と豊かな色彩感覚が特徴です。彼の作品は、文部省美術展覧会(文展)にも出品され、高い評価を受けました。

2023年には、敦賀市立博物館で没後100年を記念した展覧会が開催され、初期から晩年までの代表作や、東本願寺障壁画作成時の下絵、文展に出品した作品などが展示されました。この展覧会では、彼の活動を支えた人々や、上海で親交を深めた文化人との交流を示す資料も紹介され、内海吉堂の画業とその背景が広く紹介されました。

内海吉堂は、明治から大正時代の京都画壇において、南画の伝統を守りつつも新しい時代の要請に応えた画家として、今後さらに注目される存在となるでしょう。