荒木寛畝あらきかんぽ

時代 大正時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 日本画
プロフィール 日本画家。江戸生。姓は田中、幼名は光三郎。荒木寛快に入門、のちその養子となり姓を継ぐ。山内容堂の知遇を受け、土佐藩の絵所預となる。東美校教授。帝室技芸員。大正4年(1915)歿、85才。

荒木寛畝(あらき かんぽ、1831年〈天保2年〉頃または1834年〈天保5年〉頃生まれ〜1915年〈大正4年〉)は、明治から大正期にかけて活躍した日本画家で、花鳥画や山水画を得意とし、伝統的な写実技法を高めたことで知られます。特に、京都画壇を中心に活躍した四条派の流れを汲みつつ、新しい時代の感覚を取り入れた作風が評価されました。

【生涯と活動】
出身地:京都府(もしくは滋賀県ともいわれます)
師匠:四条派の巨匠・塩川文麟(しおかわ ぶんりん)に学んだとされています。塩川文麟は呉春(松村月渓)の流れを汲む四条派の重要人物で、写生を重視する自然観察に基づく画風を荒木も学びました。
画号:寛畝(かんぽ)
※「畝(うね)」は田畑の畝を意味し、豊かな実りへの願いを込めたと考えられています。
画風:
四条派らしく、写実的な描写と装飾的な美しさの調和が特徴です。
特に花鳥画に優れ、細密描写と優美な色彩感覚を活かした作品を多く残しました。
山水画にも優れ、柔らかな筆致と落ち着いた色使いで、静謐な風景を描き出しています。
明治期以降、西洋画の影響も受けつつ、伝統的な日本画の技巧を守ったことで知られています。
官展・展覧会:
明治期の絵画改良運動にも関心を持ち、内国勧業博覧会などにも作品を出品しています。特に、明治20年代以降は京都画壇の重鎮としても活動し、多くの門弟を育てました。
【代表作】
『春花秋実図』
『四季花鳥図』
『牡丹孔雀図』
これらの作品は、四条派伝統の写生技法に基づく優美な画面構成が高く評価されています。
【門下生・影響を受けた人物】
荒木寛畝は多くの弟子を持ちましたが、明確に記録されている人物は少ないものの、彼の作風は後世の花鳥画家に大きな影響を与えています。
【晩年】
大正4年(1915年)に逝去。晩年まで創作活動を続け、伝統的な日本画の美しさを後世に伝える役割を果たしました。

荒木寛畝は、四条派の伝統を継承しつつも、明治・大正という激動の時代の中で、日本画の品格と格調を保ち続けた存在と言えるでしょう。特に花鳥画における優美な表現は、今なお高く評価されています。