狩野探美かのうたんび
時代 | 明治時代 |
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カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 日本画 |
プロフィール | 狩野派の画家。鍛冶橋狩野家十代。名は守貴。探淵の次男。明治維新後、海軍操練所製図御用に出仕、また皇居造営の絵画御用を命じられる。絵画共進会審査員・全国宝物取調局鑑査掛等を務めた。明治26年(1893)歿、54才。 狩野探美(かのう たんび、1840年 – 1893年)は、明治時代に活躍した日本画家で、江戸時代から続く狩野派の名門「鍛冶橋狩野家」の第10代当主です。名は守貴(もりたか)といい、父は狩野探淵です。明治維新後の激動の時代において、伝統的な狩野派の技法と精神を守り抜こうと尽力しました。 略歴と活動 出生と家系:1840年(天保11年)2月に生まれ、狩野探淵の子として鍛冶橋狩野家を継ぎました。 明治維新後の活動:1870年(明治3年)には海軍操練所製図所に勤務し、その後、皇居造営事業において御用絵師として参加しました。また、第1回内国絵画共進会(1882年)に「嫦娥図」などを出品し、銀印を受賞しています。 その他の役職:絵画共進会の審査員や全国宝物取調局の鑑査掛なども歴任し、明治期の美術界において一定の影響力を持っていました。 作風と代表作 狩野探美の作品は、伝統的な狩野派の技法を踏襲しつつも、明治時代の新しい感性を取り入れたものが多く見られます。特に「若竹鶏之図」は、鶏の羽の質感や若竹の瑞々しさが巧みに描かれており、彼の代表作として知られています。 また、「祇王祇女図」や「山水図」なども制作しており、花鳥画や人物画、風景画など多岐にわたる題材を手がけました。これらの作品は、現在も古美術市場で取引されており、その技術の高さが評価されています。 狩野派再興への尽力 明治時代には、西洋画や新しい日本画の潮流が台頭する中で、伝統的な狩野派の地位は低下していました。そのような状況下で、狩野探美は狩野派の復権を目指し、御用絵師としての活動や展覧会への出品などを通じて、狩野派の技法と精神を後世に伝えようと努めました。しかし、1893年(明治26年)に54歳で亡くなり、その志半ばで生涯を閉じました。 狩野探美は、明治時代の激動の中で伝統を守り抜こうとした数少ない画家の一人です。彼の作品は、現在でもその技術の高さと美しさから、多くの人々に愛されています。特に「若竹鶏之図」は、その繊細な描写と色彩感覚で高く評価されています。 もし狩野探美の作品を実際にご覧になりたい場合は、美術館や古美術商での展示・販売情報をチェックされることをおすすめします。また、オークションサイトなどでも彼の作品が出品されることがありますので、興味があればそちらもご覧ください。 |