天野方壷あまのほうこ
時代 | 明治時代 |
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カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 日本画 |
プロフィール | 幕末・明治の日本画家。伊予生。名は俊、字は吉太、通称は大吉、別号に雲眠・壷翁等。はじめ森田樵眠、のち中林竹洞に画を学ぶ。また英照皇后より揮毫を命じられる。明治27年(1894)歿、67才。 天野方壺(あまの ほうこ、1824年 – 1894年)は、幕末から明治初期にかけて活躍した伊予(現在の愛媛県松山市三津浜)出身の南画家・文人画家です。その生涯は「旅絵師」として全国を巡り、多彩な画風と豊かな教養を持ち合わせた人物として知られています。 生涯と画歴 出身と初期の学び:文政11年(1824年)に三津浜の商家「天惣」の家に生まれ、通称は太吉、名は俊。号としては「方壺」「白雲外史」「雲眠」「葛竹城」など多数を用いました。初めは地元の四条派画家・森田樵眠に師事し、のちに京都で中林竹洞の門に入りました。 多彩な師事歴と遊歴:京都では土佐光孚から着色法を、貫名海屋から書画法を学び、さらに江戸で椿椿山、長崎で木下逸雲、九州で日根対山らに師事しました。また、明治3年には中国に渡り、胡公寿に南画を学んだと伝えられています。彼の旅は北海道の函館から九州、さらには中国大陸にまで及び、まさに「万里を行く」旅絵師としての生涯を送りました。 晩年と定住:明治8年(1875年)、52歳のときに京都に居を構え、四季の草花を栽培・販売する「売花翁」としても知られました。その後も旅を続け、明治27年(1894年)に岐阜で没したとされています。 作風と代表作 画題と技法:山水画、花鳥画、人物画を得意とし、特に観音像を描いた作品が多く残されています。水墨画に淡彩を加えた柔らかな筆致が特徴で、詩文や賛を添えた文人画の形式を多く採用しました。 代表作: 「波上白衣観音図」:明治12年(1879年)作。観音像と般若心経を組み合わせた作品で、彼の精神性が表れています。 「竹林観世音図」:1884年作。竹林の中に佇む観音像を描いた作品で、現在はニューヨークのメトロポリタン美術館に所蔵されています。 「山水花卉図屏風」:明治19年(1886年)作。松山城天守閣に長らく展示されていた六曲一双の屏風で、彼の代表作の一つとされています。 評価と影響 富岡鉄斎との交流:文人画の巨匠・富岡鉄斎と親交があり、鉄斎は方壺を「画匠」と称して高く評価していました。鉄斎の長男・謙蔵が方壺宅を訪れた記録も残されています。 作品の収蔵と展示:愛媛県美術館には方壺の作品が42点所蔵されており、2004年には生誕180年を記念した展覧会が開催されました。また、福島県の桑折町種徳美術館でも展覧会が行われています。 天野方壺の生涯には不明な点も多く、例えば彼の墓所とされる京都の霊厳寺は実在が確認されていません。また、中国への遊学も伝承の域を出ないとする研究者もいます。しかし、その作品は全国各地に残されており、彼の存在感を今に伝えています。 作品の鑑賞と収集 天野方壺の作品は、オークションや美術館で鑑賞・収集が可能です。例えば、Yahoo!オークションでは彼の掛軸が出品されたことがあります。 また、彼の作品は全国各地に散在しており、特に愛媛県美術館や松山城天守閣などで所蔵・展示されています。 天野方壺は、その自由奔放な旅と多彩な画風で、幕末から明治初期の日本画壇に独自の足跡を残した画家です。彼の作品を通じて、当時の文人画の魅力を感じてみてはいかがでしょうか。 |