吉川君渓よしかわくんけい
時代 | 明治時代 |
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カテゴリー | 絵画、書画 |
作品種別 | 日本画 |
プロフィール | 吉川君渓(よしかわ くんけい、本名:吉川弘信、1800年~1884年)は、江戸時代後期から明治初期にかけて活躍した尾張(現在の愛知県名古屋市)出身の画家で、狩野派の流れを汲む「町狩野」として知られる吉川家の一員です。彼は、通称を春助といい、初めは「君渓」と号し、後に「益翁」と改めました。父は吉川義信(号:一渓)で、吉川家は代々尾張藩の御用絵師を務めた家系です。 生涯と画業 吉川君渓は、寛政12年(1800年)に尾張藩士の家に生まれ、父・義信のもとで狩野派の画法を学びました。彼は特に仏画や人物画に優れ、名古屋城本丸御殿の障壁画の筆者鑑定を藩から命じられるなど、藩の画事にも深く関わりました。また、町狩野として市井に門を構え、庶民にも絵を教えるなど、地域の文化振興にも寄与しました。 門人と影響 吉川君渓の門人には、佐々木月岱(ささき げったい)がいます。月岱は、初め君渓に狩野派を学び、後に京都で岡本清暉に師事して四条派を修めました。彼は、呉春(松村月渓)の画風を慕い、名古屋に四条派の画風を伝えました。このように、君渓の教えは弟子を通じて他の画派にも影響を与え、名古屋の画壇に多大な貢献をしました。 家族と後継者 吉川君渓の子である吉川弘道も画家として活動しました。弘道は、父・君渓から狩野派の技法を学び、絵画展で入選を果たすなどの実績を持ちます。また、大正天皇の即位を記念して宮内省に屏風を奉納した記録もあり、考古学や鉱物学にも深い関心を寄せ、多くの学者との交流を持ちました。 吉川君渓は、尾張の町狩野として、狩野派の伝統を守りつつ、地域の文化振興や後進の育成に尽力しました。彼の作品や教えは、名古屋の画壇において重要な位置を占めており、現在もその影響を見ることができます。 |