玉手棠洲たまてとうしゅう
時代 | 明治時代 |
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カテゴリー | 絵画、書画 |
作品種別 | 日本画 |
プロフィール | 幕末・明治の日本画家。大阪の人。名は蓮・連、字を清操・子恒、別号は酔仙人、俗称は常蔵。中井藍江の門に学ぶ。山水人物を能くした。明治4年(1871)歿、77才。 玉手棠洲(たまて とうしゅう、1795年~1871年)は、江戸時代後期から明治初期にかけて活躍した大坂(現在の大阪市)出身の画家です。名は連(れん)、字(あざな)は子恒(しこう)といい、中井藍江(なかい らんこう)に師事しました。風景画や人物画を得意とし、特に風俗画や戯画に優れた才能を発揮しました。酒を好み、酔仙人と称されたことでも知られています。 生涯と画業 玉手棠洲は寛政7年(1795年)に大坂で生まれました。師である中井藍江のもとで画技を磨き、風景や人物を中心とした作品を多く手がけました。その作風は、写実性とユーモアを兼ね備え、庶民の生活や風俗を生き生きと描写することに長けていました。また、仏教的な主題を風刺的に描いた作品もあり、庶民の信仰や風刺文化に対する深い理解が伺えます。 家族と弟子 玉手棠洲の家族も画業に携わっており、息子の玉手梅洲(たまて ばいしゅう)や玉手菊洲(たまて きくしゅう)も画家として活動しました。彼らは父・棠洲に師事し、能狂言絵などを描いていました。その作風は父と近しく、家族全体で一つの画派を形成していたと考えられます。 作品と評価 玉手棠洲の作品は、風景画や人物画、風俗画、戯画など多岐にわたります。特に、当時の人々を地獄界に取り合わせて戯画化した『地獄帖』など、風刺的な要素を含む作品が知られています。これらの作品は、庶民の信仰や風刺文化を反映しており、現在も仏教版画展などで展示されています。 玉手棠洲は、江戸時代後期の大坂画壇において、写実性とユーモアを兼ね備えた作品を多く残した画家です。彼の作品は、当時の庶民の生活や信仰、風刺文化を理解する上で貴重な資料となっています。また、家族や弟子たちを通じて、その画風は次世代にも受け継がれました。 |