杉谷雪樵すぎたにせっしょう

時代 明治時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 日本画
プロフィール 杉谷 雪樵(すぎたに せっしょう、文政10年9月26日(1827年11月15日) - 明治28年(1895年)8月4日)は、幕末から明治時代中期の日本画家。雪舟の流れを汲む雲谷派支流で、熊本藩の御用を務める矢野派に属する、熊本藩最後の御用絵師。晩年は上京して日本美術協会などで活躍、熊本における近代日本画家の先駆と評される。

杉谷雪樵(すぎたに せっしょう、1827年〈文政10年〉11月15日 – 1895年〈明治28年〉8月4日)は、幕末から明治時代中期にかけて活躍した日本画家で、熊本藩最後の御用絵師として知られています。彼は雪舟の流れを汲む雲谷派の支流である矢野派に属し、熊本における近代日本画の先駆者と評されています。

生涯と画業の歩み
熊本市坪井裏鳥町に生まれた雪樵は、幼名を一太郎、名を敬時、号を洞庭子・雪樵と称しました。父・杉谷行直は熊本藩の御用絵師であり、雪樵は父や矢野派六代目・矢野良敬に師事して画技を磨きました。19歳で父を亡くし、家督を継いで藩絵師となりました。

安政3年(1856年)には、松井家当主の江戸参府に随行し、旅の中で写生を重ね、京都の四条派や大坂の森一鳳の作品に感銘を受け、自らの画風に影響を与えました。この経験をもとに代表作「道中風景図巻」を制作し、以後「雪樵」の号を用いるようになりました。

明治維新後は藩の仕事を失い、一時的に生活苦に見舞われましたが、旧藩主細川家や松井家からの支援を受け、画業を続けました。明治20年(1887年)には上京し、細川家に寄宿しながら制作活動を行い、宮内省からの御用画の依頼も受けるなど、中央画壇でも名を知られるようになりました。明治28年(1895年)、細川邸で御用画を揮毫中に亡くなりました。

作風と代表作
雪樵の作品は、雪舟流雲谷派の伝統を基盤としつつも、四条派や大和絵、宋元・明清の中国絵画など多様な様式を研究し、独自の画風を確立しました。特に山水画に優れた作品を多く残しており、保守的な作風ながらも熊本近代日本画の展開に大きな役割を果たしました。

代表作には以下のようなものがあります:

『道中風景図巻』:江戸参府の旅を題材にした全12巻の絹本著色作品。
『草廬三顧図屏風』:六曲一隻の紙本墨画淡彩で、1882年(明治15年)制作。
『日蓮聖人涅槃図』:1884年(明治17年)制作の紙本著色作品。
『花鳥図』:1888年(明治21年)制作の絹本著色作品で、宮内省に買い上げられた。
『雪樵画帖』:1892年(明治25年)制作の絹本著色で、上下2冊全50図からなる。

門人と後継者
雪樵の門人には、近藤樵仙(1865年生まれ)がいます。樵仙は雪樵に師事し、明治20年(1887年)にともに上京。日本美術協会や日本画会で作品を発表し、宮内省の御用絵画や明治神宮壁画の制作にも携わりました。雪樵の画風を継承し、熊本日本画の近代化に貢献しました。

杉谷雪樵は、伝統的な画風を守りつつも、多様な様式を取り入れて独自の表現を追求した画家であり、熊本における近代日本画の礎を築いた人物として評価されています。その作品は現在も多くの美術館やコレクションで鑑賞することができます。