渡辺小華わたなべしょうか

時代 明治時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 日本画
プロフィール 渡辺 小崋(わたなべ しょうか、天保6年1月7日(1835年2月4日) - 明治20年(1887年)12月29日)は、幕末・明治期の三河国田原藩家老で、日本画家。渡辺崋山の次男。諱は諧(かのう)で、通称は舜治。小崋(後に「小華」)は雅号。

渡辺小華(わたなべ しょうか、1835年〈天保6年〉1月7日 – 1887年〈明治20年〉12月31日)は、幕末から明治時代にかけて活躍した日本画家であり、田原藩の家老も務めた人物です。彼は父・渡辺崋山の画業を継承し、花鳥画や水墨画において独自の表現を追求しました。

生涯と経歴
小華は江戸麹町の田原藩邸に生まれました。父・崋山が「蛮社の獄」で蟄居となった際、家族とともに田原に移住し、7歳のときに父を亡くしました。その後、13歳で江戸に出て、父の門人である椿椿山の画塾「琢華堂」に入門し、花鳥画の技法を学びました。

安政元年(1854年)に椿山が亡くなると、画家として独立し、安政3年(1856年)には兄の急逝により家督を相続しました。文久元年(1861年)には椿山の養女・須麿と結婚し、田原に帰郷。元治元年(1864年)には田原藩の家老に任命され、藩政に携わりました。

明治7年(1874年)には豊橋に移り住み、画塾を開いて多くの門弟を育成しました。明治15年(1882年)には東京に拠点を移し、明治宮殿の杉戸絵制作にも参加しました。しかし、持病のリウマチが悪化し、明治20年(1887年)に腸チフスにより53歳で亡くなりました。

作風と代表作
小華の作品は、椿椿山譲りの花鳥画を中心に、水墨画や人物画にも秀作を残しています。彼の作品は、繊細な筆致と豊かな色彩感覚が特徴であり、自然の風景や動植物を生き生きと描写しています。

代表作には以下のようなものがあります:

『烟草綿花ノ図』:明治10年(1877年)の第一回内国勧業博覧会に出品され、花紋賞を受賞した作品です。

『鶏に蟷螂図』:明治17年(1884年)に制作され、三の丸尚蔵館に所蔵されています。

『牡丹に孔雀図』:明治12年(1879年)に制作された作品で、西圓寺に所蔵されています。

『雲中南天図』、『寒菊図』、『紫薇花図』、『朝顔図』:明治20年(1887年)に制作された板地着彩の作品で、宮内庁に所蔵されています。

教育と後進の育成
小華は豊橋に画塾を開き、多くの門弟を育成しました。彼の門下には、山下青厓、深井清華、大河戸晩翠、稲田耕山、鈴木梅巌、井上華陵、鏑木華国などがいます。これらの弟子たちは、師の教えを受け継ぎ、各々の分野で活躍しました。

渡辺小華の作品は、現在も各地の美術館で所蔵・展示されており、その芸術性と技術は高く評価されています。特に、田原市博物館や豊橋市美術博物館などで、彼の作品を鑑賞することができます。