菅原白龍すがわらはくりゅう
時代 | 明治時代 |
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カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 日本画 |
プロフィール | 南画家。西置賜郡豊田村時庭(現在の長井市)生れ。梵林院という神職の子。本名は道雄。晩年はもっぱら「白龍山人」と称したが、外に知源、源暁、泰嶽、梵林、八十八溪居士、爽気襲人、和楽齋、五石十水楼、日橋隠士などの落款したものがある。幼時長井・宮の遍照寺の長沼月峰という法印に師事、1852(嘉永5)年画業修業に江戸にのぼったが、自分の意に添わぬことが多く、画業を断念して帰郷した。引き続き福島の熊坂適山に師事して画技をみがいた。明治2年再び上京し、閨秀作家奥原晴湖、画商菊池省三らの世話もあって、美術愛好家に面識も得て、相当世にとわれるようになった。 しかし家庭の事情で僅か二年たらずで郷里玉庭に帰った。明治6年小松村鎮座白山神社の祠掌となり、引き続き各地の神社の祠掌を歴任している。明治15年から再び東京に落ちつき、同郷の吾妻健三郎の「東陽堂」という出版屋の画誌「絵画叢誌」の出版を手伝いながら画業に専念した。明治17年、政府がはじめて絵画共進会を開いた時は、その審査員になりあるいは米国シカゴ博覧会に出品するなど、東京でも一流の大家としての地位を獲得するに至った。 彼は南画に新風を送りこんで、日本的南画を確立したといっても過言ではなく、南画史に残る画家である。修験道の家に生まれ、明治初年の神童思想の洗礼を受けて日本主義的な立場で南画をながめて、日本的南画の創始となったのである。もっと長命すればいよいよ白龍独特の絵が完成したのであろうが、66歳で東京日本橋浜町の自宅で病死した。 菅原白龍(すがわら はくりゅう、1833年〈天保4年〉– 1898年〈明治31年〉)は、幕末から明治時代にかけて活躍した日本画家であり、日本的な南画の確立に尽力した人物です。彼は写生を重視し、日本の風景を描くことで独自の画風を築きました。 生涯と画業 菅原白龍は、出羽国西置賜郡時庭村(現在の山形県長井市)に生まれました。家は代々修験者であり、白龍山梵林院の神職を務めていました。幼少期から『北斎漫画』を見て独学し、11歳の時に長沼月峰、渡辺玄渓に南画を学びました。その後、江戸に出て熊坂適山に師事し、各地を巡って画技を高めました。 彼は、従来の南画家が粉本をもとに見たこともない中国の山水を型通りに描いていることに反発し、「見ぬものを描くは偽りである」と写生の重要性を主張しました。日本の南画を創出するため、故郷の最上川、日光、富嶽など、直接目にする日本の自然を描き、独自の画境を開拓していきました。 作風と代表作 菅原白龍の作品は、南画を主としながらも、写生を重視した独自の画風が特徴です。彼は、日本の自然を直接観察し、その風景を描くことで、日本的な南画の確立を目指しました。代表作には、山形美術館所蔵の「山水図」や、旧野崎家住宅に所蔵されている「夏渓山水図」などがあります。 教育と後進の育成 菅原白龍は、後進の育成にも力を注ぎました。彼は、明治22年に日光で遊歴画家としていた寺崎広業を東京に伴い、「絵画叢誌」に挿絵を描かせるなどして、次代を担う青年画家たちを育成しました。また、明治17年には渡辺小華らと東洋絵画会を組織し、機関誌「東洋絵画叢誌」を発行しました。 菅原白龍の作品は、現在も各地の美術館で所蔵・展示されており、その芸術性と技術は高く評価されています。特に山形美術館や本間美術館などで、彼の作品を鑑賞することができます。 |