狩野勝川かのうしょうせん
時代 | 明治時代 |
---|---|
カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 日本画 |
プロフィール | 幕末・明治の画家。木挽町狩野家最後の人。江戸生。晴川院養信の長男。名は雅信、別号に素尚斎。父から画を学び、法眼に叙せられる。門人に狩野芳崖・橋本雅邦らがいる。明治13年(1880)歿、58才。 狩野勝川(かのう しょうせん、1823年〈文政6年〉– 1879年〈明治12年〉)は、幕末から明治初期にかけて活躍した江戸狩野派の絵師であり、木挽町狩野家の第10代当主として知られています。名は雅信(ただのぶ)、号は勝川院、素尚斎、尚古などを用いました。父は狩野養信で、幼少より父に画を学び、天保8年(1837年)から奥御用を務めました。 経歴と業績 江戸城障壁画の制作:天保9年から10年(1838–1839年)にかけて、江戸城西の丸御殿の障壁画制作に参加し、弘化元年から2年(1844–1845年)には本丸御殿の障壁画制作に中心画家として携わりました。その功績により、弘化元年に法眼に叙され、万延元年(1860年)には法印となりました。 木挽町狩野家の当主として:弘化3年(1846年)に父・養信が没した後、家督を継ぎ、木挽町狩野家の第10代当主となりました。嘉永5年(1852年)には江戸城西の丸御殿障壁画制作の総指揮を執るなど、幕府の御用絵師として順調なキャリアを築きました。 明治維新後の活動:明治維新により江戸狩野派が解体され、明治5年(1872年)には木挽町の屋敷が上地となり、妻の実家に寓居しました。その後、明治10年(1877年)には米国博覧会、内国勧業博覧会事務局に勤務し、明治12年(1879年)には大蔵省にも勤務しました。 作風と代表作 狩野勝川は、江戸狩野派の伝統を継承しつつも、写実的な描写を取り入れた作品を多数制作しました。現存する作品は約70点とされ、以下のような代表作があります: 『十牛図襖絵』:大徳寺大圓庵に所蔵されている襖絵で、禅宗の教義を視覚的に表現した作品です。 『鷹狩図屏風』:ライデン国立民族学博物館に所蔵されている屏風絵で、鷹狩りの様子を描いています。 『龍田図屏風』:バウアー・コレクションに所蔵されている屏風絵で、秋の風景を描いた作品です。 『唐美人図』:個人蔵の作品で、中国風の美人を描いた作品です。 『源氏物語図屏風』:下関市立美術館に所蔵されている屏風絵で、源氏物語の一場面を描いています。 『花鳥図』:静岡県立美術館に所蔵されている作品で、花と鳥を描いた作品です。 教育者としての功績 狩野勝川は、多くの弟子を育て、近代日本画の礎を築きました。特に「勝川四天王」と称された以下の画家たちは、後に日本画壇で重要な役割を果たしました: 狩野芳崖(1828–1888):近代日本画の父と称され、東京美術学校の設立にも関与しました。 橋本雅邦(1835–1908):東京美術学校の教授を務め、狩野派の伝統を近代日本画に継承しました。 木村立嶽(1828–1890):山水画を得意とし、明治期の日本画壇で活躍しました。 狩野勝玉昭信(1840–1891):狩野派の技法を継承し、明治期の日本画に貢献しました。 狩野勝川は、江戸狩野派の最後の重鎮として、幕末から明治初期の日本画壇に多大な影響を与えました。彼の作品や教育活動は、現在も多くの美術館や研究機関で評価され、研究が進められています。 |