中島来章なかじまらいしょう

時代 明治時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 日本画
プロフィール 中島 来章(なかじま らいしょう、寛政8年(1796年) - 明治4年(1871年))は、幕末から明治時代にかけて活躍した円山派の絵師。姓は源、字は子慶、別号に䳉江、春分斎・神通堂等。横山清暉、岸連山、塩川文麟らと共に平安四名家と呼ばれるほど名声を得た。

中島来章(なかじま らいしょう、1796年〈寛政8年〉– 1871年〈明治4年〉)は、幕末から明治初期にかけて活躍した円山派の日本画家で、山水・人物・花鳥画を得意としました。横山清暉、岸連山、塩川文麟とともに「平安四名家」と称され、京都画壇で高い評価を受けました。


生涯と画業
出自と初期の学び:近江国(現在の滋賀県)大津または信楽に生まれ、幼少期から画才を示しました。9歳で京都に出て、円山応挙門下の渡辺南岳に師事し、装飾性の強い花鳥画を学びました。南岳没後は、応挙の長男・円山応瑞に学び、山水・人物・花鳥の筆法を修めました。

改名と活動拠点の変遷:当初は「源来章」と名乗り、父・源章とともに京都に住んでいましたが、文政5年(1822年)に大津に移住し、文政13年(1830年)に京都に戻ってからは姓を「中島」に改めました。

幕末期の活躍:安政度の御所造営に伴う障壁画制作に参加し、御常御殿御小座敷上の間に「蘆辺に鶴図」を描きました。また、洒脱な花鳥画は京都・近江の商人たちにも人気を博し、当時の画壇の第一人者として認められていました。

作風と代表作
中島来章の作品は、円山派の伝統を守りつつも、洒脱な感覚を持ち合わせており、特に鯉や鶉などの花鳥画に優れています。代表作には以下のようなものがあります:


「三国志武将図屏風」:1822年(文政5年)制作。右隻には関羽、左隻には劉備が描かれ、静と動を対比的に表現しています。

「五節句図」:五幅からなる作品で、各節句の風俗を描いています。

「游鯉図」:鯉の遊泳を描いた作品で、東京国立博物館に所蔵されています。

「武陵桃源図」:理想郷を描いた作品で、三井記念美術館に所蔵されています。

門下生と影響
中島来章は多くの優れた門下生を育て、明治以降の日本画壇に大きな影響を与えました。主な門下生には以下の人物がいます:

中島有章:実子であり、父の画風を継承しました。

幸野楳嶺:明治期の日本画壇で活躍し、多くの弟子を育てました。

川端玉章:明治時代の日本画家で、東京美術学校の教授も務めました。

加納夏雄:明治期の彫金家で、帝室技芸員としても活躍しました。

中島来章の作品は、現在も各地の美術館で所蔵・展示されており、その芸術性と技術は高く評価されています。特に花鳥画に関しては、滋賀県立美術館や東京国立博物館などで鑑賞することができます。