鈴木百年すずきひゃくねん

時代 明治時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 日本画
プロフィール 鈴木 百年(すずき ひゃくねん、文政11年5月28日(1828年7月9日) - 明治24年(1891年)12月26日)は、幕末から明治時代にかけて活動した絵師、日本画家。鈴木派の祖。幼名は甚之丞、諱は世寿、字は子孝。百年は画号で、別号に大椿翁、大年、狂歌名に志椀斎など。

鈴木百年(すずき ひゃくねん、1828年7月9日 – 1891年12月26日)は、幕末から明治時代にかけて活躍した日本画家であり、京都画壇における「鈴木派」の創始者として知られています。彼は多様な画派の技法を学び、それらを融合させた独自の画風を確立しました。


基本情報
本名:鈴木 世寿(すずき せいじゅ)
号:百年、大椿翁、画仙堂、東錦楼、大年、志椀斎(狂歌名)など
出身地:京都(父・鈴木星海の出仕先)
生没年:1828年(文政11年)7月9日 – 1891年(明治24年)12月26日

生涯と画業
鈴木百年は、儒学者であり天文学者でもあった鈴木星海の子として京都に生まれました。幼少期から絵の才能を示し、10歳頃には父の天文学に必要な図を模写するなどして技術を磨きました。14歳頃から「百年」の号を与えられ、本格的に絵師としての修行を開始します。正式な師匠は持たず、岸岱や岸連山から影響を受けつつも、基本的には独学で技術を習得しました。また、彩色法は土佐家での手伝いを通じて学んだとされています。


彼は与謝蕪村や呉春の作品を好み、小田海僊や日根対山を学び、大西椿年に私淑しました。京都市立芸術大学芸術資料館に所蔵されている百年の粉本には、中国絵画や蕪村の俳画・南画の模写、円山派の写生図など、多岐にわたる学習の跡が見られます。


15歳で『古方薬品考』という本草書の挿図を手掛け、19歳で御堂御殿の杉戸絵や御所から進呈された屏風絵を描くなど、早くからその才能が認められていました。明治13年(1880年)には京都府画学校の副教員に任命されましたが、半月で退任しています。晩年には各地を遊歴し、1891年に東京で逝去しました。


鈴木派と門下生
鈴木百年は、諸画派の技法を折衷し、独自の画風を確立しました。彼の門下からは多くの優れた画家が輩出され、「鈴木派」として一大勢力を形成しました。代表的な門下生には、長男の鈴木松年、今尾景年、久保田米僊、畑仙齢などがいます。また、妻の春香も絵師であり、家族全体が芸術に携わっていました。


作風と作品
鈴木百年の作品は、南画風がやや強いものの、四条派風の作品も多く見られます。彼自身は自らの資質を冷静に判断しており、息子の松年に対して「自分は画によって一家をなしたが、これは素人が凝り固まったようなものだ、おまえの代でようやく玄人といえるようになった」と述べています。
ウィキペディア

代表作には以下のようなものがあります:

『唐人物図屏風』:紙本墨画淡彩、二曲一双、赤穂市立美術工芸館田淵記念館寄託
『溪邨春景図』:絹本著色、グリフィス&パトリシア・ウェイコレクション(シアトル美術館寄託)
『雨中田植図』:絹本墨画淡彩、大英博物館所蔵
『春秋山水図』:紙本著色、六曲一双、赤穂市立田淵記念館所蔵

影響と評価
鈴木百年は、京都画壇において独自の画風を確立し、多くの優れた門下生を育てたことで、日本画の発展に大きく貢献しました。彼の作品は、現在も国内外の美術館や個人コレクションに所蔵されており、その芸術的価値は高く評価されています。

鈴木百年の作品は、オークションや美術館の特別展などで見ることができます。彼の作品に興味がある場合は、京都市立芸術大学芸術資料館や赤穂市立美術工芸館田淵記念館などを訪れると良いでしょう。