幸野楳嶺こうのばいれい
時代 | 明治時代 |
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カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 日本画 |
プロフィール | 幸野 楳嶺(こうの ばいれい、弘化元年3月3日(1844年4月20日) - 明治28年(1895年)2月2日)は、江戸時代末から明治初期の日本画家。名は直豊、幼名は角三郎、字は思順、号は楳嶺、他に鶯夢、長安堂、青龍館、六柳北圃など多数。 幸野楳嶺(こうの ばいれい、1844年〈天保15年〉– 1895年〈明治28年〉)は、幕末から明治時代にかけて活躍した日本の日本画家・教育者です。京都を拠点に活躍し、明治期京都画壇の中心人物として知られ、多くの弟子を育て、近代日本画の基礎を築きました。 基本情報 氏名:幸野 楳嶺(こうの ばいれい) 本名:幸野 元興(こうの もとおき) 号:楳嶺(ばいれい) 生没年:1844年1月3日(天保15年12月6日)-1895年5月28日(明治28年) 出身地:山城国京都(現在の京都府京都市) 画派:円山四条派系統、のちに楳嶺派を形成 略歴と画業の発展 幼少期・修行時代 京都で生まれ、幼い頃から絵に親しむ。 最初は四条派の画家・**中島来章(なかじま らいしょう)**に学び、円山・四条派の伝統的写生技法を習得。 また、土佐派風のやまと絵や狩野派の技法、中国画風なども広く研究し、自身の画風を形成。 独立と活躍 明治維新後、京都の画壇再興に尽力し、多くの展覧会に出品。 京都府画学校(現・京都市立芸術大学)設立に関わり、指導者としても活躍。 明治11年(1878年)には**「楳嶺塾」**を開き、多数の門人を育成。 楳嶺の画風と作風の特徴 伝統的写生+近代感覚:円山四条派に基づいた写生技法を活かしつつ、明治の近代化に対応した新しい日本画の方向性を模索。 幅広い主題:花鳥画、山水画、美人画、歴史画、風俗画など多様なジャンルに取り組む。 装飾性と品格:繊細な線描と抑制の効いた色彩で、気品ある表現が多くの支持を集めた。 代表的な門下生(楳嶺四天王) 楳嶺は教育者としても非常に優れており、彼の元で学んだ弟子たちは「楳嶺四天王」と呼ばれ、明治日本画の中心的存在となりました: 竹内栖鳳(たけうち せいほう):近代日本画の巨匠 菊池芳文(きくち ほうぶん) 都路華香(つじ かこう) 谷口香嶠(たにぐち こうきょう) 彼らをはじめ、数多くの画家が楳嶺塾で育ち、のちの京都画壇を担いました。 代表作・業績 『百鳥画譜』『花鳥画譜』などの画譜を出版し、全国の絵師や愛好家に広く影響を与えました。 帝室技芸員に任命されることはなかったものの、京都における日本画の精神的支柱とされました。 京都画学校設立、東京美術学校(現・東京藝術大学)との連携など、明治美術教育の制度化に貢献。 死後の評価 楳嶺の死後、彼の遺志は弟子たちに受け継がれ、**「楳嶺派」**は京都画壇の核として続きました。 とくに竹内栖鳳は、楳嶺の精神を受け継ぎつつ、さらに国際的な視野で日本画の近代化を進めました。 現在でも京都市美術館、京都国立博物館などに楳嶺の作品が所蔵されており、展覧会で取り上げられることもあります。 まとめ 幸野楳嶺は、幕末から明治にかけての大転換期において、日本画の伝統を守りながらも教育と革新に尽力した画家です。彼の画業と教育活動は、明治以降の京都画壇だけでなく、日本美術全体の近代化に大きく貢献しました。 |