狩野芳崖かのうほうがい

時代 明治時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 日本画
プロフィール 狩野 芳崖(かのう ほうがい、文政11年1月13日(1828年2月27日) - 明治21年(1888年)11月5日)は、幕末から明治期の日本画家で近代日本画の父。幼名は幸太郎。名は延信(ながのぶ)、雅道(ただみち)。号は松隣、皐隣。盟友たる橋本雅邦と共に、日本画において江戸時代と明治時代を橋渡しする役割を担うと共に、河鍋暁斎、菊池容斎らと狩野派の最後を飾った。

狩野芳崖(かのう ほうがい、1828年〈文政11年〉– 1888年〈明治21年〉)は、幕末から明治時代にかけて活躍した日本画家であり、近代日本画の創始者のひとりとされています。伝統的な狩野派に学びつつ、西洋画の写実性や精神性を融合させた新しい日本画表現を追求し、岡倉天心やフェノロサとともに日本画の近代化を切り拓いた先駆者です。

基本情報

名前:狩野芳崖(かのう ほうがい)
本名:狩野伊川院芳崖(かのう いせんいん ほうがい)
生年:1828年(文政11年)
没年:1888年(明治21年)
出身:長門国萩藩(現在の山口県萩市)
流派:狩野派(江戸狩野家の末裔) → 近代日本画
師匠:狩野晴川院養信(江戸幕府御用絵師)
略歴と活動

■ 幕末期:伝統狩野派の修業と没落
狩野派の嫡流に学び、江戸時代には「御用絵師」としての典型的な修業を積む。
江戸幕府の崩壊とともに狩野派も保護を失い、芳崖も生活苦に陥る。
一時は絵筆を捨て、日々の暮らしのために写生画などを売る生活に転落。
■ 明治期:日本画再生への挑戦
アーネスト・フェノロサ(米国人哲学者・美術史家)と出会い、西洋美術の思想に触発される。
フェノロサと岡倉天心の思想のもと、「精神性」「宗教性」を日本画に取り入れようとする革新運動に加わる。
明治政府が欧化政策を進めるなか、**「日本画の再生」「東洋美術の価値再評価」**を強く志す。
芳崖の芸術的特徴

1. 伝統と革新の融合
狩野派の様式美(筆法・構成力)を基盤としながら、西洋的な明暗表現、空間構成、感情の表出を試みた。
静謐な精神性や人間の内面性に迫るテーマを好み、装飾的ではない深みのある画面を追求。
2. 宗教的・象徴的主題
晩年の代表作では慈悲・苦悩・覚醒など、哲学的・宗教的なテーマを視覚化。
例:「悲母観音」は、母の慈悲を通して普遍的な愛と救済を描く。
3. 写実性と感情の融合
西洋画から学んだ明暗法(陰影)を応用しつつも、日本画の線描を重視。
人物の表情や構図にドラマ性と霊性を帯びた崇高さを表現した。
代表作

作品名 制作年 特徴
悲母観音(ひぼかんのん) 1888年 観音菩薩が幼児を抱く構図。母性と慈悲の結晶。未完ながら近代日本画の象徴。東京藝術大学所蔵。
不動明王 明治期 仏教的荒ぶる神格を写実的に表現。西洋的構図との融合。
飛天 明治期 浮遊する天女の姿に象徴的な精神性を込める。装飾性もあり。
芳崖と同時代の比較

画家 特徴 関係性
橋本雅邦 芳崖の盟友であり、明治日本画の共創者。東京美術学校でともに教鞭を執る。
横山大観 次世代の革新者。芳崖の精神を岡倉天心から継承。
菱田春草 大観とともに朦朧体を発展。芳崖の宗教性とは異なる自然詩的アプローチ。
芳崖の評価と意義

**「近代日本画の父」**と称され、狩野派の伝統を現代に接続した最重要人物の一人。
フェノロサによって「東洋美術の精神の化身」と評価され、欧米にもその名を伝えられた。
芳崖の死後、「悲母観音」は日本美術の象徴的存在として長らく崇められることになる。
まとめ

項目 内容
名前 狩野芳崖(かのう ほうがい)
生年・没年 1828年–1888年
出身地 長門国(山口県)
所属 狩野派 → 日本美術院(天心・フェノロサと共闘)
作風 伝統+写実+精神性。宗教的象徴性を重視
代表作 『悲母観音』『不動明王』『飛天』など
意義 近代日本画の創始者、日本美術の精神的支柱