中井竹山なかいちくざん
時代 | 江戸時代 |
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カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 墨蹟・書 |
プロフィール | 中井竹山(なかい ちくざん、享保15年5月15日(1730年6月29日) - 享和4年2月5日(1804年3月16日))は江戸時代中期の儒学者である。大坂の学問所 懐徳堂の四代目学主として全盛期を支える。中井甃庵の長男。中井履軒は実弟。中井蕉園は子。中井碩果、並河寒泉は孫。中井桐園(履軒の孫)は碩果の養子。中井木菟麻呂は桐園の子。 名を善太、元服後に積善と改名。字は子慶。号は竹山、同関子、渫翁、雪翁など。 中井竹山(なかい ちくざん、1730年6月29日〈享保15年5月15日〉–1804年3月16日〈享和4年2月5日〉)は、江戸時代中期の儒学者であり、大坂の学問所「懐徳堂」の第4代学主として、その全盛期を築いた人物です。名は積善(せきぜん)、字は子慶(しけい)、通称は善太。号として竹山、同関子、渫翁、雪翁などを用いました。父は懐徳堂第2代学主の中井甃庵(しゅうあん)、弟は中井履軒(りけん)です。 生涯と学問的背景 竹山は大坂尼崎町の懐徳堂内で生まれ、幼少期より父や懐徳堂の助講であった五井蘭洲に師事し、朱子学を中心に経学、漢学、詩文、神道、仏教、史学、経済、兵学など幅広い学問を学びました。29歳で懐徳堂の預人となり、53歳で第4代学主に就任。弟の履軒とともに懐徳堂の学風を確立し、多くの門人を育てました。 主な著作と思想 『草茅危言(そうぼうきげん)』:1791年に老中松平定信に献じた経世論で、参勤交代制度の軽減、武士の俸禄制度の廃止、公的教育機関の設置、元号の一世一元制など、当時としては革新的な国家制度の改革案を提案しました。 『非論語徴(ひろんごちょう)』:荻生徂徠の『論語徴』を批判した著作で、朱子学の立場から徂徠学を批判し、朱子学の正統性を主張しました。 『逸史(いっし)』:幕府の命により徳川家康の一代記を編纂したもので、1799年に献納されました。 『詩律兆(しりつちょう)』:近体詩の声律を平仄の配列から研究した漢詩作法書で、詩作の指南書として知られています。 『扶桑木説(ふそうぼくせつ)』:日本に関する巨木伝説を紹介し、考証した著作で、上古の日本に巨木があったことを事実として論じています。 懐徳堂の再建と晩年 1792年の大火で懐徳堂が全焼した際、竹山は江戸に赴き、幕府に再建のための支援を要請。幕府から黄金300両を賜り、1796年に懐徳堂を再建しました。1799年には徳川家康の一代記『逸史』を幕府に献納。1804年、75歳で病没し、大阪上本町の誓願寺に葬られました。 家族と後継者 竹山は革島氏を妻とし、九男四女をもうけました。四男の中井蕉園(しょうえん)と七男の中井碩果(せきか)は学問を継ぎ、孫の中井桐園(とうえん)は碩果の養子となり、曾孫の中井木菟麻呂(つくまろ)は懐徳堂関係資料を保存・寄贈するなど、中井家は代々学問と懐徳堂の伝統を守り続けました。 中井竹山は、朱子学を基盤としながらも柔軟で合理的な学風を持ち、経世論を展開するなど、江戸時代中期の儒学界において重要な役割を果たしました。その業績は、現在も多くの研究者によって評価されています。 |