丹羽嘉言にわよしのぶ
時代 | 江戸時代 |
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カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 墨蹟・書 |
プロフィール | 江戸中・後期の画家。尾張生。字は彰甫、福善斎・謝庵等の号がある。初め尾張藩士竹中氏に仕え、のち京都に出て池大雅と親交した。書画を能くし、特に画は、元・明の画風を自ら学びとり、その巧妙さは大雅と並称された。天明6年(1786)歿、45才。 丹羽嘉言(にわ よしのぶ、1742年〈寛保2年〉~1786年〈天明6年〉)は、江戸時代中期に活躍した尾張(現在の愛知県名古屋市)出身の文人画家で、尾張南画の草創期を代表する人物の一人です。彼は山水画を中心に、写生と中国画の融合を試みた独自の画風を確立しました。 生涯と学問 出自と号:尾張藩士の家に生まれ、字(あざな)は彰甫、通称は新次郎。号は謝庵、福善斎、聚珍堂、名士閣など多数を用いました。 学問と画業:幼少期から経史や国学に親しみ、20歳前後で京都に遊学。帰郷後は富士山の写生を通じて山水画の研究を深め、明和年間(1764~1772年)に多くの真景富士山図を制作しました。 隠棲生活:1776年(安永5年)、名古屋市昭和区の川名山般若台に隠棲し、禅僧・雲臥禅師に参禅。以後は独居自炊の生活を送りながら、画業に専念しました。 画風と代表作 文人画の先駆者:嘉言は中国の明清画を好み、独学で文人画を学びました。特に写生を重視し、実景をもとにした「真景図」の制作に力を入れました。 『神洲奇観図』:名古屋市博物館に所蔵されているこの作品は、富士山を写生風に描いたもので、嘉言の代表作とされています。 『福善斎画譜』:1814年に成立したこの画譜は、鳥、獣、虫、魚などを描いたもので、嘉言の画風や思想を知る上で貴重な資料です。 デジタルアーカイブ模写派! 教育と影響 門人と交流:嘉言は多くの門人を育て、巣見来山や丹羽盤桓などが知られています。また、国学者の鈴木朖や画家の西村清狂とも交流がありました。 尾張南画への貢献:嘉言は尾張南画の基礎を築き、後の文人画家たちに大きな影響を与えました。 晩年と顕彰 最期:1786年(天明6年)に45歳で没し、名古屋市千種区の極楽寺に葬られました。墓碑銘は「章甫居士之墓」で、碑文は親友の鈴木朖によるものです。 相対録 顕彰:嘉言の作品や画譜は、現在も名古屋市博物館などで所蔵されており、その功績は高く評価されています。 丹羽嘉言は、写生と中国画の融合を試みた独自の画風を確立し、尾張南画の発展に大きく寄与した画家です。その作品や思想は、現在も多くの人々に影響を与え続けています。 |