太宰春台だざいしゅんだい
時代 | 江戸時代 |
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カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 墨蹟・書 |
プロフィール | 太宰 春台(だざい しゅんだい、延宝8年9月14日(1680年11月5日) - 延享4年5月30日(1747年7月7日))は、江戸時代中期の儒学者・経世家。「春台」は号で、名は純、字は徳夫、通称は弥右衛門。また、紫芝園とも号した。 太宰春台(だざい しゅんだい、1680年9月14日 – 1747年5月30日)は、江戸時代中期の儒学者・経世家であり、荻生徂徠の高弟として知られます。彼は経済思想や政治論において独自の見解を示し、後世に大きな影響を与えました。 生涯と学問的背景 出自と幼少期:信濃国飯田(現在の長野県飯田市)に生まれ、父・太宰言辰の次男として育ちました。9歳のときに父が失職し、一家で江戸に移住しました。 仕官と遊学:15歳で但馬出石藩に仕官しましたが、数年後に無断で致仕したため、10年間の他藩仕官禁止令を受けました。この期間、京坂を遊学し、漢詩・天文学・地学・朱子学などを学びました。 徂徠門下へ:32歳で江戸に戻り、友人の紹介で荻生徂徠に入門。朱子学を捨て、古文辞学を学びました。その後、下総生実藩に仕えましたが、5年後に病を理由に致仕し、以後は官途につかず、私塾「紫芝園」を開きました。 思想と主張 経済思想:春台は、徂徠の農業中心の自然経済論を原則として認めつつも、商品経済の現実を直視し、藩専売制を採用して富国強兵を図るべきだと説きました。この考えは、海保青陵に引き継がれました。 礼の重視:朱子学の心の修養を目指す心法論を否定し、外的規範としての「礼」を極度に重視しました。これは、儒学を学問の次元に留めず、習俗の次元で受容しようとする姿勢の表れです。 政治観:将軍を日本国王とし、鎌倉・室町・江戸の3時代はそれぞれ国家が異なると主張しました。 主な著作 『経済録』:1729年成立。経済総論をはじめ、礼楽、官職、天文、地理、食貨など、経済のみならず広く政治論も含む経済書です。日本で初めて「経済」の語を書名とした書物とされています。 『経済録拾遺』:1740年代執筆。『経済録』の補遺として、藩財政の困窮や貨幣経済の発展に対応するため、商業重視の立場へと転換した内容が記されています。 『聖学問答』:儒学における聖人の学問について問答形式で記した書。 『弁道書』:宗教論に徂徠学を適用し、神道批判を展開した書。 『論語古訓』:『論語』の古訓を記した書で、徂徠説の批判も含まれています。 教育活動と門人 春台は、江戸の小石川に私塾「紫芝園」を開き、松崎観海・湯浅常山ら多くの門人を育てました。彼の教育は、経世済民の思想を実践する人材の育成を目指していました。 晩年と死後 1747年、68歳で江戸にて没しました。墓所は東京都台東区谷中の天眼寺にあり、都の指定史跡となっています。出身地の長野県飯田市には、春台の石碑と「太宰松」と呼ばれる松の木があり、彼の功績を偲ぶことができます。 太宰春台は、江戸時代中期の日本において、儒学と経済思想を融合させた先駆的な思想家でした。彼の著作や教育活動は、後世の経世家や思想家に大きな影響を与え続けています。 |