平野国臣ひらのくにおみ
時代 | 江戸時代 |
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カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 墨蹟・書 |
プロフィール | 平野 国臣(ひらの くにおみ)は、日本の武士・福岡藩士、志士。大蔵氏の流れをくむ。通称は次郎、巳之吉。諱は種言、種徳。変名に都甲楯彦、宮崎司、草香江水際、佐々木将監など。贈正四位。 攘夷派志士として奔走し、西郷隆盛ら薩摩藩士や真木和泉、清河八郎ら志士と親交をもち、討幕論を広めた。文久2年(1862年)、島津久光の上洛にあわせて挙兵をはかるが寺田屋事件で失敗し投獄される。出獄後の文久3年(1863年)に三条実美ら攘夷派公卿や真木和泉と大和行幸を画策するが八月十八日の政変で挫折。大和国での天誅組の挙兵に呼応する形で但馬国生野で挙兵するがまたも失敗に終わり捕えられた。身柄は京都所司代が管理する六角獄舎に預けられていたが、禁門の変の際に生じた火災を口実に殺害された。 平野 国臣(ひらの くにおみ、1828年〈文政11年〉– 1864年〈元治元年〉)は、幕末期の尊王攘夷運動の志士であり、勤皇思想と過激な行動力を併せ持った反幕・反佐幕の急先鋒です。肥前国(現在の佐賀県)の出身で、勤皇運動を西国各地に広め、後に獄中で非業の死を遂げた、幕末勤皇の象徴的存在の一人とされています。 ◆ 基本情報 項目 内容 氏名 平野 国臣(ひらの くにおみ) 通称 又十郎、のち梅花亭(号) 生没年 1828年(文政11年)– 1864年(元治元年) 出身地 肥前国佐賀(現・佐賀県佐賀市) 身分 郷士・儒者出身、のち志士として活動 信条 尊王攘夷、倒幕思想、勤皇救国 最期 禁門の変直後に獄中で殺害される ◆ 生涯と活動の流れ ◉ 幼少・青年期 佐賀の下級郷士の家に生まれる。幼い頃から学問と武道に励み、特に漢詩と儒学に優れた才能を示しました。 佐賀藩校弘道館で学び、優秀な成績をおさめるが、藩の保守的な体制に不満を抱くようになります。 ◉ 尊王攘夷への傾倒と志士活動 江戸に出て学問と剣術を修める一方、尊王思想に強く傾倒。 幕末の志士たちと連絡を取り合いながら、京都・大坂・長州・薩摩など各地を遊説し、「天皇親政」「攘夷断行」を熱烈に主張。 梅田雲浜、久坂玄瑞、真木和泉らと連携。 ◉ 薩摩での活動と幽閉 1858年、薩摩藩を拠点に尊攘運動を活発化。藩主・島津久光に「倒幕・勤皇」への参加を説得するが、逆に危険人物と見なされ幽閉される。 その後、釈放されても活動を止めず、再び捕えられ、鹿児島で幽閉される。 この時期、幽閉の身でありながらも各地の志士と書簡を交わし続け、西国の志士たちの思想的支柱となった。 ◉ 禁門の変と死 1864年、長州藩が京都御所を攻めた「禁門の変」の混乱のさなか、平野国臣は捕らえられていた六角獄舎(京都)で獄中斬殺されました(享年37)。 彼の死は、勤皇派の間で殉教者的に扱われ、後の尊攘運動に精神的な影響を与えました。 ◆ 人物像と思想 ◉ 過激な行動派 平野国臣は、思想と行動が一体化した人物で、「憂国の士の典型」として知られます。 その性格は非常に直情的かつ誠実で、あらゆる妥協を嫌い、時の権力や現実政治にも強く反発しました。 ◉ 詩文・書にも秀でる 志士としてだけでなく、詩人・書家としての才も高く評価されています。 刀剣と筆を両手に持つような、文武一体の人物でした。 号「梅花亭」を名乗り、多くの絶筆・遺墨が今も残されています。 ◆ 有名な言葉・詩 「天皇を君と仰ぎ、神州を護るは、士たる者の大義なり」 「忠義を貫かんには、一命を惜しまず」 こうした気骨ある言葉は、後世の志士(特に西南戦争の士族たち)にも引用されました。 ◆ 死後の評価と顕彰 明治以降、平野国臣は明治政府により顕彰され、「忠烈士」として名を残す。 京都の霊山墓地や佐賀市の顕彰碑などに名を残し、彼の志と生涯は今も語り継がれています。 教科書ではあまり目立たないが、精神的な幕末の象徴的人物として多くの研究者に注目されています。 ◆ まとめ 項目 内容 名前 平野国臣(ひらの くにおみ) 生年 1828年(文政11年) 没年 1864年(元治元年) 信条 尊王攘夷、勤皇倒幕 活動地域 京都・薩摩・肥前など 死因 獄中での斬殺(禁門の変後) 特徴 行動力と信念、文武両道の志士 号 梅花亭、他に又十郎とも |