細井平洲ほそいへいしゅう

時代 江戸時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 墨蹟・書
プロフィール 細井 平洲(ほそい へいしゅう、享保13年6月28日(1728年8月3日) - 享和元年6月29日(1801年8月8日))は、江戸時代の儒学者。本姓は紀氏。折衷学派。平洲または如来山人と号す、諱は徳民、通称は甚三郎。字は世馨。尾張国知多郡平島村(現・愛知県東海市)出身。弟子には寛政の三奇人として有名な高山彦九郎などがいる。また、米沢藩藩校興譲館の学則には『紀徳民』とある。

細井平洲(ほそい へいしゅう、1728年〈享保13年〉– 1801年〈享和元年〉)は、江戸時代中期の儒学者・教育者・詩人です。特に実学重視の陽明学的精神と、人格陶冶を重視した教育思想で知られ、多くの門人を育てました。最も有名な弟子には、**米沢藩主・上杉鷹山(ようざん)**がいます。

◆ 生涯の概要

◉ 幼少期と学問の道
1728年、尾張国知多郡(現在の愛知県東海市)に生まれる。
若い頃から読書を好み、京都で儒学を学び、朱子学・陽明学・古学を広く吸収。
木下順庵や伊藤仁斎の影響を受けつつ、自己の実践重視の学問を追求しました。
◆ 学問と教育活動

◉ 「教学一致」の精神
学問をただの知識とせず、人間としての徳を育てることを第一義とした。
「書物を読んで終わりではなく、それを実生活にどう生かすか」を問う教育方針。
◉ 尾張藩での活動
名古屋を拠点に、私塾「嚶鳴館(おうめいかん)」を開設。
一般庶民にも広く門戸を開き、身分を問わず教育の機会を提供しました。
尾張藩の藩校「明倫堂」でも講義を行い、藩士教育にも尽力しました。
◉ 米沢藩・上杉鷹山との関係
鷹山が若き藩主時代に師と仰いだのが細井平洲です。
「為政者は民のためにある」という考え方を鷹山に教え、その後の米沢藩の藩政改革に大きな思想的基盤を与えました。
鷹山は平洲の教えを生涯忘れず、藩政を通して実践しました。
◆ 思想の特徴

◉ 実践重視(陽明学的傾向)
朱子学の体系的な理論も尊重しつつ、「知行合一(ちこうごういつ)」の考えを重視。
学問と道徳、政治と倫理が不可分であると説き、真の学びとは世を治め人を助けるためにあるとしました。
◉ 庶民教育への志
武士だけでなく町人・農民にも学問の門を開いたことは、当時としては画期的。
「教えることは自らをも磨く行いである」として、教える側にも厳しい自己修養を求めました。
◆ 著作・記録

『嚶鳴館記』:私塾の理念と教育内容について記されたもの。
『細井平洲文集』:講義録、詩文、書簡などをまとめた集成。
多くの詩や随筆、教育的書簡が残されており、儒学と文学の両面から評価されています。
◆ 晩年と死

晩年は教育と著述活動に専念し、1801年に没(享年74)。
死後も「文教の師表(しひょう)」として尊敬され、幕末・明治の教育者たちにも影響を与えました。
◆ 細井平洲の評価と影響


項目 内容
名前 細井平洲(ほそい へいしゅう)
生没年 1728年 – 1801年
出身地 尾張国(現・愛知県東海市)
主な活動地 名古屋・米沢など
教育理念 教学一致、知行合一、徳育重視
門弟 上杉鷹山 ほか多数
代表著作 『嚶鳴館記』『細井平洲文集』など
特徴 儒学の実践者、庶民教育の先駆者、人格重視の教育者
◆ 名言・思想のエッセンス

「学問は心を磨き、人の道を明らかにするためのもの。名利のために学ぶべきではない」
このような姿勢は、現代の教育理念にもつながる普遍的な価値観として高く評価されています。