太田垣蓮月おおたがきれんげつ
時代 | 江戸時代 |
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カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 墨蹟・書 |
プロフィール | 大田垣 蓮月(おおたがき れんげつ、寛政3年1月8日(1791年2月10日) - 明治8年(1875年)12月10日)は、江戸時代後期の尼僧・歌人・陶芸家。俗名は誠(のぶ)。菩薩尼、陰徳尼とも称した。 太田垣 蓮月(おおたがき れんげつ、1791年(寛政3年)– 1875年(明治8年))は、江戸時代後期から明治にかけて活躍した尼僧・歌人・陶芸家です。女性でありながら、多くの苦難を乗り越えつつ、独自の芸術的世界を築き上げたその生涯は、日本文化史の中でも非常に特異で魅力的です。 ◆ 生涯の概略 ◉ 幼少期と出家 1791年、京都で誕生。(出生名は不明。) 幼いころに京都の公家・太田垣家に養女として迎えられる。 数度の結婚と離別、実子を幼くして亡くすなど、深い悲しみを経験。 これらの不幸を経て、29歳で出家し「蓮月尼」と名乗る。 ◆ 尼僧としての生活と創作活動 ◉ 住まいと生活 出家後は京都の岡崎、銀閣寺近く、あるいは嵯峨野などに住み、質素な生活を送りました。 托鉢をしながら生活費を得る一方、陶器や書、和歌を制作し、生計を立てました。 草庵での静かな暮らしぶりが、のちの「蓮月焼」の誕生につながります。 ◆ 蓮月の芸術世界 ◉ 陶芸(蓮月焼) 素焼きの茶碗や皿、壺などに、自作の和歌や禅的な言葉を筆で書き付けた焼物を制作。 技術的には素朴ながら、温かみと精神性に満ちた独特の味わいがあり、現在では「蓮月焼」として珍重されています。 特に、「詠歌入りの茶碗」や「蓮の葉を模した皿」などが人気です。 ◉ 和歌 古今和歌集や西行などを理想とした、清らかで哀感を帯びた詠風。 人生の無常、孤独、自然への共感などを題材とすることが多く、同時代の文人たちからも高く評価されました。 文政・天保期には、京都の文壇に名を知られる存在となりました。 ◆ 人間関係と評価 ◉ 文人・芸術家との交流 頼山陽、富岡鉄斎、貫名海屋、篠崎小竹など、当時の著名な文人・書画家たちと親交を持ちました。 彼らとの交流によって、蓮月の作品は一層広く知られるようになりました。 ◉ 富岡鉄斎との関係 鉄斎とは特に親密な交流があったとされ、彼女の死後、鉄斎は墓誌銘を手がけたほか、蓮月を主題にした絵を多数残しています。 ◆ 晩年と死 明治になっても変わらぬ質素な暮らしを続け、84歳でその生涯を終えました。 墓所は京都・金戒光明寺(黒谷)にあり、多くの人が今も訪れます。 ◆ 太田垣蓮月の魅力と評価 項目 内容 名前 太田垣蓮月(蓮月尼) 生没年 1791年 – 1875年 出身地 京都 職業 尼僧、和歌・書家、陶芸家 代表作 蓮月焼(詠歌入りの器)、和歌、書 特徴 哀感をたたえた和歌、禅的な陶芸、草庵の生活 評価 「芸術と生を一体化させた女性文人」 ◆ 代表的な和歌(例) ゆく春の 別れを惜しむ 山桜 さそふ嵐に 花も涙か 自然と人生の無常を重ねるような、しみじみとした歌風が蓮月の持ち味です。 ◆ 現在の評価と影響 現代でも茶道や骨董の世界では「蓮月焼」が高く評価されており、オークションや美術展でも目にする機会があります。 蓮月の生き方は、女性の自立、精神的強さ、芸術との一体的な生き方として、再注目されています。 「和歌と器が一体となった表現」という点でも、非常にユニークで唯一無二の存在です。 |