徳川斎昭とくがわなりあき

時代 江戸時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 墨蹟・書
プロフィール 徳川 斉昭(とくがわ なりあき)は、江戸時代後期の大名(親藩)。常陸水戸藩の第9代藩主。江戸幕府第15代(最後)の将軍・徳川慶喜の実父である。

徳川斎昭(とくがわ なりあき、1800年〜1860年)は、江戸時代後期の水戸藩第9代藩主であり、幕末期において尊皇攘夷の思想を藩政に取り入れた中心的存在です。後に15代将軍となる徳川慶喜の実父としても知られていますが、それ以上に彼の思想的・政治的行動は、幕末の動乱に大きな影響を与えました。

【基本情報】

名:徳川 斎昭(とくがわ なりあき)
幼名:七郎麻呂
生年:1800年(寛政12年)
没年:1860年(万延元年)
父:徳川治紀(水戸藩8代藩主)
子:徳川慶喜(江戸幕府15代将軍)
身分:御三家の一つ・水戸徳川家の当主(第9代藩主)
【人物像と性格】

斎昭は、非常に強い意志と厳格な性格を持った人物で、儒学を尊び、特に水戸学に基づく尊皇思想を重視していました。質素倹約と勤勉を自らの信条とし、藩主としての責務を非常に強く意識していた人物です。

また、非常に行動力があり、藩政改革や軍備強化にも着手し、水戸藩を幕末の重要な思想拠点へと導いた功労者でもあります。

【水戸藩主としての政治改革】

◆ 『弘道館』の創設と教育政策
斎昭の重要な業績のひとつが、水戸藩の藩校である「弘道館(こうどうかん)」の整備です。

儒学・歴史・兵学などを教授する大規模な学問所
藩士のみならず庶民にも学問を開放するという先進的理念
天皇中心の国体思想を強く教育に取り入れる
「尊皇攘夷」の思想の温床となり、後の水戸学者・志士を輩出
◆ 藩政改革と軍制整備
財政再建のための倹約政策を実施
家臣団の再編と規律の強化
洋式兵制(砲術・船舶)への関心を持ち、蘭学も研究
藩主自らが農兵訓練を主導し、士気を高めた
【尊皇攘夷思想と幕政への関与】

徳川斎昭は、水戸学の影響を強く受け、「尊皇」=天皇への絶対的忠誠を国家理念とすることを重視しました。その思想は、後に幕末の尊皇攘夷運動の思想的支柱の一つとなります。

◆ 安政の改革と幕政介入
1853年、ペリーの黒船来航に際し、幕政参与として対外政策に関与
攘夷を主張し、開国・通商に強く反対
「軍備を整え、国を守るべし」と主張し、幕府の優柔不断を非難
**一橋派(斉昭+慶喜+松平慶永ら)**として将軍継嗣問題で活発に行動
◆ 安政の大獄と処罰
将軍継嗣問題では、自子・徳川慶喜の将軍就任を強く支持
これに対し、井伊直弼ら「南紀派(徳川慶福擁立)」と対立
1858年、井伊による「安政の大獄」により、斎昭は隠居・謹慎処分を受ける
この謹慎は、1860年の斎昭の死まで続き、彼は事実上の政界追放のまま生涯を終えました。

【斎昭と徳川慶喜】

斎昭は、自らの信念に基づいて徳川慶喜に将軍の器を持たせようと徹底的に教育しました。

幼少から学問・武術・政治・道徳を厳しく鍛えた
慶喜はその教育の成果もあり、幕末屈指の知性と胆力を備えた将軍として名を残す
慶喜が15代将軍に就任し、大政奉還を実行するまでの過程には、父・斎昭の思想が色濃く影響している
【まとめ】

徳川斎昭は、幕末の思想的転換を支えた水戸藩主
水戸学と尊皇攘夷思想を藩政・教育に組み込み、弘道館を中心に思想の拠点を築いた
対外危機に際し幕政に介入し、攘夷と軍備強化を訴える先覚者
将軍継嗣問題に関与し、安政の大獄で失脚・謹慎のまま死去
徳川慶喜の父として、幕末最大の影響力を持つ教育者・思想家的藩主でもあった