大塩平八郎おおしおへいはちろう

時代 江戸時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 墨蹟・書
プロフィール 大塩 平八郎(おおしお へいはちろう、1793年3月4日(寛政5年1月22日) - 1837年5月1日(天保8年3月27日))は、江戸時代後期の儒学者、大坂町奉行組与力。大塩平八郎の乱を起こした。
通称は平八郎、諱は正高、のち後素(こうそ)、字は子起、号は中斎。家紋は揚羽。大塩家は代々、大坂東町奉行組与力であり、平八郎は初代の大塩六兵衛成一から数えて8代目にあたる。大坂天満の生まれ。かつては平八郎が養子で阿波国の生まれとする説も存在したが、乱に関する幕府評定所の吟味書の記述などから養子である可能性は否定されている。平八郎の実の祖父・政之丞が阿波国脇町の出身で、与力大塩氏に養子に入ったことから、この祖父と混同されたと考えられる。

大塩平八郎(おおしお へいはちろう、1793年〜1837年)は、江戸時代後期の陽明学者・大阪町奉行所与力・義民的反乱指導者として知られる人物です。彼が起こした「大塩平八郎の乱」は、当時の幕府の政治腐敗や社会矛盾を鋭く突くものであり、武士による思想的な反乱という点で、日本史において特異かつ重要な事件とされています。

【基本情報】

名前:大塩 平八郎(おおしお へいはちろう)
本名:大塩 中斎(ちゅうさい)/大塩 正章(まさあき)
生年:1793年(寛政5年)
没年:1837年(天保8年)※享年45
出身地:摂津国大阪(現在の大阪市)
身分:大阪町奉行所の与力(中級武士)
学問:陽明学(ようめいがく)、特に「知行合一」を重視
【人物像】

大塩平八郎は、町奉行所に仕える武士でありながら、学問にも深く通じ、市井に私塾「洗心洞(せんしんどう)」を開いて陽明学を教えていました。
その生活は清廉で知られ、派手な武勇伝はないものの、**「行動する思想家」**として当時から尊敬されていた人物です。

【陽明学と思想】

陽明学とは、中国・明の王陽明が説いた儒学の一派で、

知行合一(ちこうごういつ):正しいと知ったことは、必ず実行しなければならない
良知(りょうち):人間は誰しも生まれながらに善悪を知る力を持っている
という教えが核です。

大塩はこの思想を深く学び、幕府の腐敗や民の苦しみに目を背けることは**「不義」「不忠」である**とし、為政者の怠慢を糾弾する義を実行しようとしました。

【大塩平八郎の乱(1837年)】

◆ 背景
1830年代、天保の大飢饉が全国で続き、大阪でも深刻な飢えや困窮者が溢れていました。にもかかわらず、豪商たちは米を買い占め、幕府や町奉行も機能不全。大塩はこれを**「天に対する逆らい」**と断じ、ついに決起を決意します。

◆ 決起の内容
1837年(天保8年)2月19日、弟子や門下生ら数十人とともに大阪で蜂起
倉庫を焼き討ちし、米蔵の開放を計画(しかし大雨で思うようにいかず)
放火により大阪の町の一部が炎上(被害は幕府の想定以上)
◆ 結末
蜂起は半日で鎮圧されるが、大塩は逃亡。
しかしその後、隠れ家が発見され、捕縛を前に自決(服毒後に焼身自殺)しました。

【評価と影響】

当時:
幕府にとっては極めて深刻な事件
町奉行の与力という「内部の人間」が反旗を翻したことは衝撃的だった
他の町奉行所でも監視が強化され、陽明学は危険思想とされるように
後世:
明治以降は、民衆のために立ち上がった先覚者・義民として評価
「行動する知識人」「道義の実践者」の象徴とされ、教育者・思想家として尊敬を集めた
吉田松陰や西郷隆盛、そして後の社会運動家にも影響を与える
【名言】

「義を見てせざるは勇なきなり」
大塩の行動は、まさにこの孔子の言葉の体現とされ、「ただ学ぶだけでなく、実行に移すことが儒者の責任である」という信念を貫いたものでした。

【まとめ】

大阪町奉行所の与力にして陽明学を説いた思想家
飢饉と政治腐敗に義憤を覚え、反乱を起こした武士道的実践者
**「知行合一」**の思想を体現した、まさに行動する儒者
反乱は失敗に終わるが、幕末・明治の思想家に深い影響を残す
彼の行動は、「自己犠牲と道義のための決起」として今も語り継がれている