久坂玄瑞くさかげんずい

時代 江戸時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 墨蹟・書
プロフィール 久坂 玄瑞(くさか げんずい)は、幕末の長州藩士。幼名は秀三郎、諱は通武(みちたけ)、通称は実甫、誠、義助(よしすけ)。妻は吉田松陰の妹、文。長州藩における尊王攘夷派の中心人物。栄典は贈正四位(1891年)。

久坂玄瑞(くさか げんずい、1840年~1864年)は、幕末の長州藩に所属した尊王攘夷派の志士・医師・政治思想家であり、吉田松陰の高弟として知られています。わずか20代半ばで壮絶な最期を遂げましたが、その情熱と行動力、理想への一途な姿勢は後の明治維新を支える土台となりました。

■ 基本情報

本名:久坂 玄瑞(くさか げんずい)
通称:通称・諱ともに「玄瑞」
生年没年:1840年(天保11年)~1864年(元治元年)
出身地:長門国萩(現在の山口県萩市)
身分:長州藩医の家系(藩医→志士)
学問:蘭学・医学・儒学・兵学
師:吉田松陰
盟友・同志:高杉晋作、桂小五郎(木戸孝允)、吉田稔麿、前原一誠 ほか
■ 生涯の流れと主な活動

◉ 医学を志す俊英
藩医の子として生まれ、幼少より聡明。
蘭学・漢方・儒学を学び、医師として将来を嘱望された。
だが、時代の動乱とともに医から志士へと進路を転換。
◉ 松下村塾で吉田松陰に師事
1857年、17歳で松下村塾に入門。その才気を松陰に見込まれ、「松陰の双璧」と称される(もう一人は吉田稔麿)。
政治的思想や行動力においては塾生随一と評され、松陰の思想を実践する筆頭弟子となる。
◉ 攘夷運動の中心人物へ
1861年頃から、京都・江戸などに赴き、尊皇攘夷運動の工作活動を展開。
薩摩の西郷隆盛、土佐の武市瑞山ら他藩の志士とも連携を模索。
公武合体に反対し、**「開国ではなく攘夷あるのみ」**を主張。
◉ 政治的手腕と行動力
長州藩の若手尊攘派をまとめるリーダー格として活躍。
薩摩藩を除く尊王攘夷派の結集を推進し、京都にて朝廷工作を積極的に行う。
同時に、藩主・毛利敬親に政治的進言を行い、藩論の攘夷強硬化を後押し。
◉ 八月十八日の政変と禁門の変
■ 八月十八日の政変(1863年)

攘夷派が失脚し、京都から長州勢が追放される。
久坂は打撃を受けつつも、再び勢力回復を試みて奔走。
■ 禁門の変(蛤御門の変、1864年)

長州藩が再び京都に兵を進める。久坂はその主将格として参戦。
しかし戦局は不利に傾き、京都・蛤御門で敗北。
戦局の責任を取り、鷹司邸で自刃。享年25。
■ 久坂玄瑞の人物像

冷静な戦略家であると同時に、理想に殉じる激情の人。
実行力・交渉力に優れ、幕末屈指の「行動する思想家」として高く評価される。
高杉晋作は「久坂が長生きしていれば、自分は立たなかった」と後に述懐したと伝わる。
■ 主な功績と思想


分野 内容
政治運動 尊皇攘夷派の結集、長州藩の藩論主導、薩長同盟の前段階を構築
思想 尊皇一筋。開国・公武合体を否定し、討幕思想に傾斜
行動 各地の志士との交流、攘夷活動の扇動、京都工作など
殉死 禁門の変における責任を取り、潔く自決。烈士として尊崇される
■ 久坂玄瑞と松陰の関係

松陰が獄死したあと、松陰の遺志を最も忠実に引き継いだ弟子が久坂でした。
『草莽崛起』『死して不朽の見込みあらば』などの精神を実行に移した人物。
松陰の妹・文(ふみ)を妻に迎えており、家族的な絆も持つ。
■ 死後の評価と顕彰

明治維新後、吉田松陰と並ぶ**“幕末の殉国烈士”**として顕彰される。
山口県萩市には久坂の墓と記念碑があり、松下村塾跡地にもゆかりが残る。
小説・ドラマ・大河などでたびたび登場し、若くして散った悲劇の俊英として広く知られる。
■ まとめ:久坂玄瑞の意義


項目 内容
時代 幕末(1850〜1864年)
所属 長州藩、松下村塾
立場 尊皇攘夷派の指導者、吉田松陰の高弟
思想 尊王至上、攘夷・討幕への急進的姿勢
最期 禁門の変で自刃。享年25。
評価 明治維新の土台を作った志士の一人。「維新の礎」