蒲生君平がもうくんぺい

時代 江戸時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 墨蹟・書
プロフィール 蒲生 君平(がもう くんぺい、明和5年〈1768年〉 - 文化10年7月5日〈1813年7月31日〉)は、江戸時代後期の儒学者。尊王論者、海防論者。同時代の仙台藩の林子平・上野国の郷士高山彦九郎と共に、「寛政の三奇人」の一人に数えられる。生涯を赤貧と波乱に満ちながら、忠誠義烈の精神を貫いた。姓は、天明8年(17歳)に祖先が会津藩主蒲生氏郷であるという家伝(氏郷の子・蒲生帯刀正行が宇都宮から会津に転封の際、福田家の娘を身重のため宇都宮に残し、それから4代目が父の正栄という)に倣い改めた。君平は字で、諱は秀実、通称は伊三郎。号に修静庵。

**蒲生君平(がもう くんぺい、1768年~1813年)**は、江戸時代後期の儒学者・尊王論者・海防論者であり、特に天皇陵の調査と『山陵志』の著述で知られています。​彼は林子平・高山彦九郎とともに「寛政の三奇人」と称され、幕末の尊王思想や国学の発展に大きな影響を与えました。
諱(いみな):​秀実(ひでざね)
字(あざな):​君平、または君臧
通称:​伊三郎
号:​修静庵
生没年:​1768年(明和5年)~1813年(文化10年)
出身地:​下野国宇都宮(現在の栃木県宇都宮市)
墓所:​東京都台東区谷中の臨江寺、後に宇都宮の桂林寺にも分葬​

生涯と業績

幼少期と学問の道
蒲生君平は、宇都宮の油屋「福田屋」の四男として生まれました。​幼少期から学問に励み、6歳のときに延命院で住職の良快和尚から読み書きを学びました。​その後、鹿沼の儒学者・鈴木石橋や黒羽藩家老・鈴木為蝶軒に師事し、儒学や歴史学を修めました。​13歳のとき、祖母から先祖が会津城主・蒲生氏郷であることを聞かされ、17歳で姓を福田から蒲生に改めました。 ​

尊王思想と天皇陵の調査
君平は、荒廃していた天皇陵の現状を憂い、寛政8年(1796年)と寛政12年(1800年)の2度にわたり、近畿地方や四国地方の天皇陵を調査しました。​その成果をまとめた『山陵志』を文化5年(1808年)に出版し、天皇陵の修復を提唱しました。​この書で、彼は初めて「前方後円墳」という用語を用い、古墳の形状を明確に分類しました。 ​

教育活動と交友関係
享和元年(1801年)、江戸の吉祥寺近くに学塾「静修庵」を開き、教育と文筆活動に励みました。​また、藤田幽谷、林子平、高山彦九郎などと交友を深め、尊王思想や国防論を共有しました。​彼らとともに「寛政の三奇人」と称され、その思想は幕末の尊王攘夷運動に影響を与えました。 ​

主な著作

『山陵志』:​天皇陵の調査記録。​「前方後円墳」という用語を初めて使用。​天皇陵の修復を提唱。 ​

『不恤緯(ふじゅつい)』:​ロシアの南下政策に対する国防論を展開。​民兵の活用を提案。​松下村塾からも出版された。 ​

『職官志』:​朝廷の官職や官位、身分制度について解説した書。​文化7年(1810年)頃に成立。 ​

『今書』:​政治論をまとめた書。​神祇・山陵・姓族・職官・服章・礼儀・民・刑・志の九志の構想に発展。 ​

『皇和表忠録』:​我が国の歴史における忠義の精神を説いた書。​明治元年(1868年)に出版。 ​

死後の影響と顕彰

文化10年(1813年)、江戸で赤痢により46歳で没しました。​彼の死後、藤田幽谷が墓表を撰し、滝沢馬琴が伝記『蒲の花かつみ』を著しました。​また、宇都宮には彼を祀る蒲生神社が建立され、地元の偉人として顕彰されています。 ​

まとめ

蒲生君平は、学問と実践を通じて尊王思想を広め、天皇陵の調査と修復を提唱した先駆者です。彼の著作や思想は、幕末の尊王攘夷運動や国学の発展に大きな影響を与えました。