徳川頼宜とくがわよりのぶ

時代 江戸時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 墨蹟・書
プロフィール 徳川 頼宣(とくがわ よりのぶ)は、徳川家康の十男で、紀州徳川家の祖。常陸国水戸藩、駿河国駿府藩を経て紀伊国和歌山藩の藩主となった。母は側室の養珠院(お万の方)である。8代将軍徳川吉宗の祖父にあたる。幼名は長福丸、元服に伴い頼将(よりのぶ)と名乗り、元和年中に頼信、さらに頼宣に表記を改める[1]。初任官が常陸介であったため、子孫も代々常陸介に任官した。

**徳川頼宜(とくがわ よりのぶ、1602年〜1671年)は、江戸時代前期の大名で、紀州徳川家の初代藩主です。徳川家康の第十男として生まれ、将軍家の有力な分家(三家)の一つである「紀州徳川家(紀伊藩)」を創設した人物です。彼の子孫から後に徳川吉宗(第8代将軍)**が出たことで、幕府においても極めて重要な位置を占める家系となりました。

■ 基本情報

氏名:徳川 頼宜(とくがわ よりのぶ)
通称:紀州中納言、あるいは紀伊中納言
生年没年:1602年(慶長7年)〜1671年(寛文11年)
家系:徳川家康の第10子
父:徳川家康
母:側室・お万の方(長勝院)
官位:従三位・中納言
居城:和歌山城(紀伊国・和歌山藩)
■ 略歴と政治経歴

◉ 幼少〜大名としての歩み
幼名は長福丸。
兄にあたる徳川秀忠が将軍職を継いだことで、他の兄弟たちは**「御三家」や「親藩大名」として各地に封じられた**。
1619年(元和5年)、17歳で紀伊国(紀州藩)55万5千石に封じられ、和歌山城に入城。
これが紀州徳川家の始まりです。
◉ 紀伊藩の初代藩主として
頼宜は、紀州藩の基盤整備に大きな役割を果たしました。

■ 紀伊藩の安定と治政

領内の検地、年貢制度の整備を通じて、安定した藩政の基礎を築いた。
土木事業や寺社の修復なども行い、和歌山城下の発展を促進。
■ 将軍家との関係

御三家(尾張・紀伊・水戸)の一つとして将軍家に次ぐ地位を持ち、幕政への影響力も強かった。
将軍に後継ぎがいない場合、御三家から将軍を出すことが可能とされており、紀伊家はその筆頭候補とされた。
■ 家族と後継

子に**徳川光貞(第2代紀州藩主)があり、さらにその子が徳川吉宗(第8代将軍)**になります。
つまり、頼宜は吉宗の祖父にあたる人物であり、後の**「享保の改革」**を行う徳川吉宗の登場は、紀州家の家格を一層高めることとなります。
■ 文化的側面・人物像

若い頃から文武両道の才を持ち、教養にも富んでいたと伝えられています。
豪胆でありながら政治的には安定志向。派手な政策よりも堅実な統治に力を入れた人物です。
武家としての礼儀や秩序を重んじる、典型的な家康流の政治家としての性格が見られます。
■ 死去とその後

1671年(寛文11年)、和歌山にて死去。享年70。
墓所は和歌山県の長保寺にあり、歴代紀州藩主とともに祀られています。
紀州徳川家は、以後も幕末まで存続し、徳川慶福(のちの徳川家茂)を含む、将軍家とも密接に関わる家系となりました。
■ まとめ:徳川頼宜の意義


項目 内容
出自 徳川家康の第10子
功績 紀州徳川家(紀伊藩)の創設と藩政の基礎整備
家系の影響 孫に徳川吉宗(第8代将軍)、幕府の中枢に影響
政策傾向 実務重視・倹約・領国経営の安定化
評価 御三家筆頭格の家系を創設した名君とされる