無学宗衍むがくそうえん

時代 江戸時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 墨蹟・書
プロフィール 江戸後期の臨済宗の僧。大徳寺三百七十八世。無学は字、宗衍は諱、把不住軒と号する。玉林院の龍門宗禹の法を嗣ぎ、のち明和4年大徳寺に出世。後桜町天皇より至聖大妙禅師の勅号を賜る。寛政3年(1791)寂、71才。

**無学 祖元(むがく そげん/宗衍)**は、鎌倉時代に宋(中国)から来日した臨済宗の高僧で、日本禅宗の発展に大きな影響を与えた人物です。名前については「無学宗衍(むがく そうえん)」とも表記されることがありますが、一般的には「無学祖元(そげん)」の名で広く知られています。

■ 基本情報

法名:無学 祖元(むがく そげん)
別名:宗衍(そうえん)
生年没年:1226年(南宋・宝祐2年)〜 1286年(日本・弘安9年)
出身地:南宋・明州(現在の中国・浙江省寧波市)
宗派:臨済宗
来日:1279年(弘安2年)
■ 来日前の経歴(宋での活動)

南宋の臨済宗の名僧で、江西省や浙江省の禅院で修行。
臨済宗の楊岐派に属し、文覚の法孫(弟子の弟子)。
宋末の政治混乱の中で、多くの禅僧が日本へ渡った流れの中にいた。
■ 鎌倉時代の日本への来日

1279年、北条時宗の招きにより来日。
日本では当時、宋文化を積極的に受け入れる動きがあり、とくに幕府は禅宗と中国文化を結びつけた統治思想に注目していました。

■ 鎌倉五山と無学祖元

◉ 建長寺での布教
鎌倉の建長寺に迎えられ、日本初の宋風の禅を本格的に伝える。
北条時宗やその周囲に深く影響を与え、禅と武士道の結びつきを強めるきっかけとなった。
◉ 円覚寺の創建に関与
北条時宗の帰依を受け、1282年に**円覚寺(えんがくじ)**が創建された際、その開山(初代住職)となった。
円覚寺は後に「鎌倉五山」のひとつとなり、臨済宗の中心的寺院として栄える。
■ 思想と教え

◉ 禅と政治の融合
禅を単なる修行ではなく、「為政者の精神的支柱」として捉えた。
武士に対して、静かなる精神・死生観・無我の境地を説いた。
◉ 宋風禅の導入
座禅の形式・規律・作法を宋の禅院制度に準じて厳格化。
書・詩・儀礼・法語の面でも中国式を導入し、日本の中世禅文化の基礎を築いた。
■ 主な弟子と影響

高峰顕日(こうほう けんにち):無学の法を継ぎ、鎌倉禅を確立した。
**夢窓疎石(むそう そせき)**ら後の五山文化の礎を築いた禅僧にも影響を与えた。
また、北条時宗の精神的指導者ともなり、文永・弘安の役(元寇)での精神的支えともされた。

■ 人物像と逸話

非常に質素で寡黙な人物であり、名利に無関心。
時宗の死に際しては、「この世にとどまる理由は尽きた」として入寂を選んだという逸話がある。
その死に際して、「無一物中無尽蔵(むいちもつちゅうむじんぞう)」という語を残したと伝わる。
■ 墓所と史跡

**円覚寺(神奈川県鎌倉市)**に墓所があり、今も訪れることができる。
建長寺・円覚寺はともに禅宗の修行道場として今も続いている。
■ まとめ:無学祖元(宗衍)の意義

宋風の本格的な臨済禅を日本に定着させた先駆者
禅と武士道、禅と政治をつなげた思想的立役者
鎌倉五山体制の思想的バックボーンを形成した
日本中世禅文化、禅宗寺院の制度・儀礼・建築様式など、あらゆる面に影響