荻生徂徠おぎゅうそらい
時代 | 江戸時代 |
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カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 墨蹟・書 |
プロフィール | 荻生 徂徠(おぎゅう そらい、正仮名遣:をぎふそらい、寛文6年2月16日(1666年3月21日) - 享保13年1月19日(1728年2月28日)は、江戸時代中期の儒学者・思想家・文献学者である。名は双松(なべまつ)、字・実名は「茂卿」で、実名としては「しげのり」、字としては「もけい」と読む。通称は総右衛門。徂徠と号し(一説では「徂來」が正しいとする)、又蘐園と号した。「徂徠」の号は『詩経』「徂徠之松」に由来し、「松が茂る」の意味である「茂卿」ともに松に関する名であることが指摘される。本姓は物部氏で、「物茂卿」とも号した。父は5代将軍・徳川綱吉の侍医・荻生景明。弟は徳川吉宗の侍医で明律研究で知られた荻生北渓。その弟の影響を受けて、『明律国字解』を著している。 荻生徂徠(おぎゅう そらい)は、江戸時代前期の儒学者・思想家・政治顧問で、特に**「古文辞学(こぶんじがく)」の創始者**として、日本儒学史に大きな影響を与えた人物です。また、八代将軍・徳川吉宗の信任を得て、幕政にも関与しました。 ◆ 基本情報 項目 内容 氏名 荻生 徂徠(おぎゅう そらい) 生年 1666年(寛文6年) 没年 1728年(享保13年) 出身地 武蔵国江戸(現在の東京都) 本名 荻生 登(おぎゅう のぼる) 通称・号 徂徠(そらい)は号。字(あざな)は子魚(しぎょ) 主な分野 儒学(古文辞学)、政治論、経世論、文学 ◆ 生涯の概要 ◎ 幼少~青年期 医師の家に生まれるが、家が没落。 家計を支えるために苦学し、やがて儒学と中国古典の研究に目覚める。 若い頃は**朱子学(当時の主流儒学)**に学ぶが、次第にその限界を感じる。 ◎ 古文辞学の確立 中国・漢代以前の儒学に立ち返り、孔子や孟子の「原意」を重視する学問を打ち立てた。 これが「古文辞学(こぶんじがく)」と呼ばれ、後の日本儒学に強い影響を与えた。 学問の目的は「聖人の言葉を文の意味から正確に理解する」ことにあり、形式や儀礼に偏重した朱子学を批判した。 ◎ 政治思想と幕政参加 ● 徳川吉宗の顧問に 第8代将軍・徳川吉宗に登用され、政治顧問として意見を述べる。 『政談(せいだん)』を献上し、具体的な財政改革・社会整備案を提示。 士農工商の職分を明確にし、幕府主導の実務政治を提唱。 ● 経世済民の思想 朱子学のような抽象的道徳論ではなく、「民の衣食住を安定させることこそ政治の本義」という実践的思想を強調。 ◆ 主な著作 『政談(せいだん)』 → 幕府に献じた政治論。現実的な施策が多く、享保の改革にも影響を与えた。 『弁道(べんどう)』 → 古文辞学の理論的支柱。朱子学との違いを明確にし、自説の正当性を説く。 『論語徴(ろんごちょう)』『孟子徵(もうしちょう)』 → 論語・孟子の本文と語句の意味を、原典に基づき解釈する注釈書。 『太宰春台伝』『徂徠文集』など、多数。 ◆ 弟子と学派の広がり 主な弟子に**太宰春台(だざい しゅんだい)**がおり、経済・軍事論を展開した。 徂徠の学問は「徂徠学派」と呼ばれ、朱子学と対立しつつ、江戸中期の実学思想の中心となる。 ◆ 徂徠の思想の特徴(まとめ) 観点 内容 学問姿勢 「古に学べ」「儒学は文をもって学ぶべし」 政治観 職分制社会(身分秩序)を前提に民の生活を安定させる 朱子学批判 道徳よりも制度・実務を重視。抽象より実行を 経済観 米価安定、農政改革、貨幣経済への対応も含む ◆ 後世への影響と評価 江戸中後期の藩政改革の理論基盤に使われる(米沢藩など)。 明治維新前後に再評価され、「実学の祖」として称賛される。 一方で、過度な職分制肯定により「保守的」「封建的」との評価もあり、賛否両論を呼ぶ思想家でもある。 ◆ 墓所と記念館 墓所は東京都文京区の麟祥院にあり、学者・儒者の聖地的存在。 徂徠が教鞭をとった**「蘐園塾(けんえんじゅく)」**跡も現存し、記念碑があります。 ◆ まとめ 荻生徂徠は、 古典に立ち返った「古文辞学」の創始者 幕政改革に貢献した実務派儒学者 民の暮らしを第一とする「経世済民」の思想家 として、江戸思想史と日本政治史の両面において重要な人物です。 |