太田道灌おおたどうかん

時代 江戸時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 墨蹟・書
プロフィール 太田 道灌(おおた どうかん)は、室町時代後期の武将。武蔵守護代・扇谷上杉家の家宰。摂津源氏の流れを汲む太田氏。諱は資長(すけなが)。太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍した。江戸城を築城したことで有名である。
以降、本項では便宜上「道灌」の呼称を使用する。

太田道灌(おおた どうかん)は、室町時代の武将・築城家・詩人で、特に江戸城(現在の皇居)の築城者として知られています。知略と教養を兼ね備えた名将であり、戦国時代の到来を予感させるような活躍を見せた、関東武士団の傑出した人物です。

生涯と基本情報

太田道灌は、1432年(永享4年)、**相模国・扇谷上杉家の家宰(けさい)**であった太田資清(すけきよ)の子として生まれました。本名は太田持資(もちすけ)、道灌は号(ごう)です。

道灌は、扇谷上杉家の家宰として実権を握り、軍事・内政・文化の全てにわたって功績を残します。教養に富み、和歌や漢詩にも秀でた人物でした。

扇谷上杉家と関東の情勢

当時の関東は、鎌倉公方と関東管領が対立し、内乱が続く不安定な時代でした。道灌は扇谷上杉氏に仕えながら、同じ上杉一族である山内上杉家や、鎌倉公方足利成氏らとの複雑な政争を戦い抜きました。

江戸城の築城

道灌の最大の功績の一つが、1457年に江戸に築いた江戸城です。

現在の皇居の前身となる城で、当時の江戸はただの寒村でしたが、利根川水系・東京湾へのアクセスを考慮し、軍事・交通の要地と見抜いた道灌の慧眼がうかがえます。

この江戸城が、のちに徳川家康の本拠地となり、江戸幕府の中心となっていくのです。

合戦での活躍と武勇

道灌は武将としても非常に優れており、特に太田道灌五十余戦無敗と称えられるほどの戦歴を誇りました。関東一円の小競り合いの中で軍略を発揮し、扇谷上杉家の権威を高めました。

教養人としての側面

道灌は和歌・漢詩・兵法・儒学にも通じており、実務と教養を兼ね備えた「文武両道」の武将でした。

有名な逸話に「山吹の里」の話があります。

山吹の里の逸話
ある日、道灌が鷹狩の途中で雨に降られ、近くの農家に蓑(みの)を借りようと訪れます。すると、娘が無言で山吹の花一枝を差し出したのです。

道灌は意味がわからず立ち去りますが、後に「我が身には蓑ひとつだになき(貧しさを山吹で暗示)」という古歌に基づいた行動だったと知り、自らの教養の浅さを恥じて学問に励むようになった、という話です。

この逸話は、道灌の知識欲と謙虚さ、そして教養の重要性を象徴するエピソードとして語り継がれています。

晩年と非業の死

1478年、長年仕えてきた扇谷上杉定正の命によって、突然暗殺されました。理由にはさまざまな説がありますが、道灌の権勢を恐れた上杉家内部の疑心暗鬼や政争によるものとされます。

この死は当時の多くの人々に衝撃を与え、道灌を惜しむ詩歌や書簡も多く残されています。

後世への影響と評価

太田道灌は、武将・築城家・文化人の三拍子が揃った希有な人物として高く評価されています。江戸城を築いた功績は後の徳川幕府成立に大きく貢献しており、「江戸の礎を築いた男」とも呼ばれます。

また、江戸・関東に文化的風土をもたらした人物として、東京の歴史的象徴的存在の一人でもあります。

ゆかりの地

・東京都千代田区の皇居(旧江戸城):築城の地
・埼玉県蕨市:太田道灌の墓所があると伝えられる
・神奈川県伊勢原市の道灌山:晩年の居館があったとされる