徳川光圀とくがわみつくに
時代 | 江戸時代 |
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カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 墨蹟・書 |
プロフィール | 徳川 光圀(とくがわ みつくに)は、常陸水戸藩の第2代藩主。「水戸黄門」としても知られる。 諡号は「義公」、字は「子龍」、号は「梅里」。また神号は「高譲味道根之命」(たかゆずるうましみちねのみこと)。水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男。徳川家康の孫に当たる。儒学を奨励し、彰考館を設けて『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎をつくった。 徳川光圀(とくがわ みつくに) 基本情報 項目 内容 生没年 1628年(寛永5年)~ 1701年(元禄14年) 通称 水戸黄門(みとこうもん)※「黄門」は中納言の意 父 徳川頼房(徳川家康の11男、水戸藩初代藩主) 母 久子(側室) 官位 権中納言(中納言=「黄門」の由来) 居城 水戸城(茨城県水戸市) 幼少期と性格 光圀は徳川御三家のひとつである水戸徳川家に生まれましたが、庶子であったため当初は継嗣ではありませんでした。若い頃はやんちゃで酒色に溺れたとも言われますが、ある時から心を入れ替えて学問・政治に目覚めるようになります。 藩主としての実績 政治改革と領内整備 倹約令を出して藩財政を健全化。 教育を重視し、弘道館の前身となる学問施設を整備。 領民の暮らしを安定させる政策を実行し、「名君」として尊敬されました。 『大日本史』の編纂 光圀の最大の功績の一つが、**『大日本史』**の編纂を命じたことです。 『大日本史』とは? 日本の歴代天皇を中心に据えた歴史書(尊皇思想の基礎)。 中国の『資治通鑑』に倣い、歴史を教訓とするための編纂。 約400年にわたる編纂事業(最終的に幕末に完成)。 この事業を通じて、水戸学(尊王思想・歴史重視の思想)の基盤を築いた。 学問と文化への貢献 多くの学者を庇護し、朱子学や漢学の振興に尽力。 書や漢詩にも優れ、文化人としても高く評価される。 『史記』『十八史略』などの中国古典を愛読し、臣民にも読書を勧めた。 「水戸黄門」としての民間伝承 光圀は全国を巡るような旅をしたという確かな記録はありませんが、後世に創作された物語の中で「助さん」「格さん」を連れて諸国を旅し、悪を裁く老中として知られるようになります。 これは江戸末期~明治時代に形成された民間伝承で、**講談や芝居、テレビドラマ『水戸黄門』**などに受け継がれました。 晩年と死 1701年、水戸藩で政務に専念しながらその生涯を終えます。享年74。 墓所は水戸の常照寺および茨城県水戸市の水戸徳川家墓所(瑞龍山)。 徳川光圀の思想と影響 尊王思想の先駆者 天皇中心の歴史観・国家観を重んじ、後の**尊王攘夷運動(幕末)**にも思想的影響を与えました。 名君としての評価 清廉・実直・公正な政治姿勢により、民衆からも支持されました。 徳川家の中でも特に人格的尊敬を集めた人物です。 まとめ 項目 内容 政治 倹約と学問奨励、領民重視の政治 学問 『大日本史』の編纂、水戸学の礎 文化 朱子学の振興、漢詩・書にも通じる 評価 名君・文化人・思想家として高く評価 現代文化 「水戸黄門」として親しまれる ゆかりの地・資料館 弘道館(茨城県水戸市):水戸学の中心地 常磐神社(水戸):光圀を祀る神社 水戸徳川ミュージアム:史料の展示多数 |