徳川家康とくがわいえやす
時代 | 江戸時代 |
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カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 墨蹟・書 |
プロフィール | 徳川 家康(とくがわ いえやす、旧字体: 德川家康)、または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人で海道一の弓取りの異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。永禄9年12月29日(1567年2月18日)に勅許を得て、徳川氏に改めた。松平元信時代からの通称は次郎三郎。幼名は竹千代(たけちよ)。本姓は私的には源氏を称していたが、徳川氏改姓と従五位の叙任に当たって藤原氏を名乗り、少なくとも天正20年(1592年)以降にはふたたび源氏を称している。馬印は、金扇。兜は、歯朶獅嚙輪貫前立大黒頭巾形兜。 徳川家康(とくがわ いえやす) 基本情報 項目 内容 生没年 1543年(天文11年)~ 1616年(元和2年) 幼名 竹千代(たけちよ) 通称 江戸幕府初代将軍 出身地 三河国(現在の愛知県岡崎市) 政治拠点 駿府 → 江戸(東京) 政治的地位 征夷大将軍(1603年~1605年)/大御所として実権継続 幼少期:人質時代の苦難 家康は、三河の小大名・松平家の子として生まれましたが、幼少期は今川家と織田家を行き来する人質として過ごしました。こうした屈辱と忍耐の経験が、後の冷静沈着で用心深い性格の基礎となったと言われています。 戦国武将としての台頭 1560年、桶狭間の戦いで今川義元が討たれたのをきっかけに独立。以降は織田信長と同盟を結び、着実に勢力を拡大していきます。 主要な戦い 三方ヶ原の戦い(1572年):武田信玄に大敗。以後、慎重さを身につける。 長篠の戦い(1575年):織田信長と連携し、武田勝頼に勝利。 小牧・長久手の戦い(1584年):羽柴(豊臣)秀吉と対立、結果的に和睦へ。 天下取りへの布石:豊臣政権下での地固め 家康は豊臣秀吉に従属し、関東へ移封(江戸に移る)。 当時、江戸は寒村にすぎませんでしたが、治水・都市計画を進めて、後の大都市化への布石を築きました。 関ヶ原の戦い(1600年):天下分け目の勝負 秀吉の死後、政権内部は不安定となり、家康は自らの政権樹立を狙います。 1600年 関ヶ原の戦いで石田三成らの西軍に勝利。 事実上、全国統一を果たす。 江戸幕府の創設(1603年) 1603年:征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開く。 1605年:将軍職を子・秀忠に譲り、自らは**「大御所」**として実権を握る。 家康の政治と統治理念 幕藩体制の確立 各大名に領地を与える代わりに、幕府に忠誠を誓わせる。 江戸と全国を結ぶ「五街道」や城下町制度を整備。 法整備 武家諸法度(1615年):大名の行動を厳格に制限。 禁中並公家諸法度:朝廷の権限を制限。 キリスト教弾圧 外国勢力との結びつきを警戒し、布教活動を厳しく制限・禁止。 晩年と死後 1615年、大坂の陣で豊臣家を完全に滅ぼし、徳川政権を盤石にします。 翌1616年、駿府城にて死去(享年75歳)。死後は「東照大権現」として神格化され、日光東照宮に祀られました。 人物像と評価 性格 慎重、計算高く、我慢強い 時には冷酷だが、徹底した現実主義者 有名な言葉 「人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。」 (=人生は重い荷物を背負って遠くまで歩くようなもの。焦らず、着実に行け) 三英傑との比較 武将 特徴 織田信長 革新とスピード、破壊の人 豊臣秀吉 調和と統率、天下人 徳川家康 忍耐と計画、平和と安定の体現者 徳川家康の現代への影響 日本史上最も長く続いた平和な時代「江戸時代」の創始者。 現代の東京(江戸)を基礎から築いた都市設計者。 歴史学・政治学・戦略論における忍耐と長期戦の象徴的存在。 ゆかりの地 日光東照宮(栃木県):神として祀られている。 久能山東照宮(静岡県):遺骸が最初に納められた場所。 岡崎城(愛知県):生誕の地。 駿府城(静岡県):晩年を過ごした地。 まとめ キーワード 内容 生涯の特徴 人質→独立→統一→幕府創設 成功の鍵 忍耐、計画性、現実主義 主な功績 関ヶ原の勝利、江戸幕府設立 統治の特色 幕藩体制、法整備、平和の基礎 |