日柳燕石くさなぎえんせき
時代 | 江戸時代 |
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カテゴリー | 絵画、書画,掛け軸 |
作品種別 | 絵画 |
プロフィール | 日柳 燕石(くさなぎ えんせき、文化14年3月14日(1817年4月29日) - 慶応4年8月25日(1868年10月10日))は、江戸時代末期の志士。讃岐国那珂郡子松郷榎井村字旗岡(現・香川県仲多度郡琴平町)の出身。幼名長次郎のち耕吉、名は政章、字は士煥、号は燕石、別号柳東・春園・白堂・楽王・呑象樓・双龍閣。 日柳燕石(くさなぎ えんせき、1817年〈文化14年〉 - 1868年〈明治元年〉)は、江戸時代末期の勤王家、漢詩人、侠客です。幼名は長次郎、名は政章、字は士煥。号として燕石、柳東、三白、半楽などを用いました。 生涯と活動 讃岐国(現在の香川県)琴平に生まれ、幼少期に父を亡くしました。14歳から琴平の医師・三井雪航に学び、歴史や詩文、書画に秀でるようになりました。 燕石は、吉田松陰、桂小五郎(後の木戸孝允)、高杉晋作らとも交友がありました。弘化元年(1844年)、28歳の時に友人の富山凌雲とともに長崎の出島を訪れています。 慶応元年(1865年)、高杉晋作が四国へ逃れてきた際、これを匿った罪で高松藩に捕らえられましたが、明治元年(1868年)に出獄しました。その後、戊辰戦争に加わり、越後柏崎で病没しました。 著作と遺稿 燕石の著作には『呑象楼遺稿』や『西遊詩草』などがあります。 関連施設 琴平町には、燕石の旧宅である「呑象楼(どんぞうろう)」があり、彼の遺髪墓も象頭山を望む場所にあります。 日柳燕石は、幕末の動乱期において、文化人としてだけでなく、勤王家としても重要な役割を果たしました。 |