泉守一いずみもりかず
時代 | 江戸時代 |
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カテゴリー | 絵画、書画,掛け軸 |
作品種別 | 絵画 |
プロフィール | 泉 守一(いずみ もりかず、生年不明 - 文化11年11月5日〈1814年12月16日〉)とは、江戸時代の絵師。 泉守一(いずみ もりかず、生年不詳 - 1814年12月16日)は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した日本の絵師です。通称は吉兵衛、号は寿香亭(じゅこうてい)や春香亭(しゅんこうてい)を用いました。江戸の本郷一丁目(または二丁目)に住み、「目玉の吉兵衛」や「目吉」といったあだ名で知られていました。 経歴と活動 守一は、初め二代目堤等琳に師事し、その後、狩野探信の門人となったとされています。しかし、探信から「守」の字を与えられたとする説には疑問も呈されています。狩野派の画法を習得し、特に墨絵の雲龍や鍾馗を得意としました。また、父・吉信の跡を継ぎ、町絵師の頭として日光東照宮や徳川家霊廟などの社寺彩色御用を務めました。 作品と作風 守一の作画期は寛政(1789年 - 1801年)から文化(1804年 - 1818年)にかけてで、武者絵を得意とし、美人画や摺物も手掛けました。彼の作品は、プーシキン美術館などの海外美術館にも所蔵されています。 門人と影響 守一の門人には、娘婿の二代目寿香亭目吉や寿川亭泉鉄がいます。また、初代勝川春山も泉昌有の名で守一の門人であったとされていますが、活動時期から父・吉信の門人であった可能性も指摘されています。 晩年と死去 守一は1814年12月16日(文化11年11月5日)に没し、東京都文京区湯島の無縁坂にある講安寺に葬られました。法名は秀誉蘭底信士です。 泉守一は、江戸時代の絵師として多彩な作品を残し、後世の浮世絵師たちにも影響を与えました。 |