宮崎筠圃みやざきいんぽ

時代 江戸時代
カテゴリー 絵画、書画,掛け軸
作品種別 絵画
プロフィール 宮崎 筠圃(みやざき いんぽ、享保2年8月21日(1717年9月25日) - 安永3年12月10日(1775年1月11日))は、江戸時代中期の儒学者。名は奇、字は子常、通称は常之進。

宮崎筠圃(みやざき いんぽ、享保2年8月21日〔1717年9月25日〕―安永3年12月10日〔1775年1月11日〕)は、尾張国海西郡鳥池村(現在の愛知県弥富市)出身の江戸時代中期を代表する儒学者・文人画家です。

18歳で両親とともに京都へ移り、まず伊藤東涯(とうがい)に儒学を、東涯没後はその弟・伊藤蘭嵎(らんぐう)に学びました。詩文に優れ、墨竹画では山科李蹊(りけい)、御園中渠(なかみぞ)および浅井図南(ずなん)とともに「平安四竹」と称されるほど高く評価されました。しかし画家として名を馳せすぎたことを母に諌められ、以後は筆を折り儒者としての道を歩んだと伝えられます。

人柄は温厚かつ純真で、「仁先生」のあだ名で親しまれた逸話が残ります。ある雨の日、軒下に駆け込んだ先が娼家であったにもかかわらず、その妓(こ)の誘いを客引きと気づかず「人を助けようとした」と語ったというエピソードは、筠圃の無垢な仁徳を象徴しています。

著作としては備考録や詩文集など数巻を遺したものの、いずれも成稿には至らず、画業も後年はほとんど行いませんでした。安永3年(1774年)12月10日に58歳で没し、京都・東山の永観堂に葬られています。その生涯と作品は、儒学と文人画が融合した独自の文化的足跡として、現在も学術・美術史上で重要視されています。