石崎融思いしざきゆうし
時代 | 江戸時代 |
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カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 絵画 |
プロフィール | 石崎 融思(いしざき ゆうし、明和5年(1768年) - 弘化3年2月28日(1846年3月25日))は江戸時代後期の長崎派の絵師。唐絵目利として漢画・洋風画を折衷させた写実的洋風画を確立。 幼名慶太郎、融思は通称。字は士斉。鳳嶺と号し、後に放齢と改める。居号に鶴鳴堂・薛蘿館・梅竹園などがある。長崎の人。 石崎融思(いしざき ゆうし、1768年 - 1846年)は、江戸時代後期の長崎派を代表する画家であり、唐絵目利(からえめきき)としても活躍しました。幼名は慶太郎、字(あざな)は士斎、号は鳳嶺や放齢などを用いました。 生涯と経歴 融思は、長崎で唐絵目利を務めた荒木元融の子として生まれました。父や石崎元徳から画法を学び、石崎家の名跡を継ぎました。唐絵目利として、舶載画の鑑定や輸入品の図写を職務とし、写生的な画風が求められる中、南蘋派や西洋画法を取り入れた独自の写実的画風を確立しました。 画風と影響 融思は、漢画や洋風画を融合させた作品を多く手がけ、その写実的な描写は高く評価されました。彼の門下からは、木下逸雲、鉄翁祖門、三浦梧門など、多くの優れた画家が輩出され、長崎画壇の発展に大きく寄与しました。 主な作品 「ブロンホフ家族図」(1817年、神戸市立博物館蔵) 「蘭船図」(1822年、神戸市立博物館蔵) 「デ・フィレニューフェ夫妻図」(1830年、長崎歴史文化博物館蔵) これらの作品は、融思の卓越した写実技法と、漢画と洋風画の融合を示す代表的なものとして知られています。 晩年 天保3年(1832年)には、長崎の松森神社の修繕に際し、職人尽絵を彩色するなど、地域の文化活動にも積極的に関わりました。翌年、長年勤めた職を退きましたが、その功績が認められ、死去するまで毎年銀300目が贈られました。 石崎融思は、長崎派の発展と洋風画の普及に大きく貢献し、その影響は後世の日本絵画にも及んでいます。 |