平井顕斎ひらいけんさい
時代 | 江戸時代 |
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カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 絵画 |
プロフィール | 平井 顕斎(ひらい けんさい、享和2年(1802年) - 安政3年4月12日(1856年5月15日))は江戸時代後期の南画家。 幼名は元治郎、名は忱、字は欽夫、通称を治六。 号は顕斎・三谷山樵。 遠江の生まれ。 平井顕斎(ひらい けんさい、1802年〈享和2年〉 - 1856年〈安政3年〉)は、江戸時代後期に活躍した南画家です。幼名は元治郎、名は忱(しん)、字は欽夫、通称は治六、号は顕斎や三谷山樵などを用いました。遠江国榛原郡青池村谷之口(現在の静岡県牧之原市細江字青池)の豪農の家に生まれました。 生涯と経歴 初期の学び:幼少より書画の才能を示し、12歳のときに掛川藩御用絵師の村松以弘に入門しました。同門には福田半香がいました。 家督相続と結婚:14歳で父が没し、兄が家督を継ぎましたが、兄も文政8年(1825年)に亡くなり、顕斎が家督を継ぎました。同年、駿河田中藩藩士渋垂順太夫の三女と結婚しました。 江戸での修行と遊歴:文政10年(1827年)、画家になる夢を追い江戸に出て、谷文晁に師事しました。その後、関東各地を遊歴し、高久靄厓との出会いが画業に影響を与えました。天保6年(1835年)には再び江戸に出て、福田半香の紹介で渡辺崋山に入門しました。崋山が蛮社の獄で捕らえられた際には、椿椿山や半香らと救済活動を行いました。 晩年:崋山の自刃後、郷里を拠点に近隣を遊歴し、多くの作品を制作しました。晩年も東海地方を中心に旅を続け、安政3年(1856年)に三河・刈谷を訪問中に病を得て岡崎に戻り、旅館上野屋で客死しました。享年56。 画業と作品 顕斎は、谷文晁や渡辺崋山の影響を受け、中国古画の模写を多く行いました。特に、元代の画家・高克恭に私淑し、山水画を得意としました。また、花鳥画では惲寿平を範とし、人物画も道釈人物や故事人物など幅広く手掛けました。 主な作品 「十六羅漢図」:円成寺蔵(静岡県指定文化財)。これは、崋山の慰霊のために描かれたとされています。 「碧山墨趣図」:嘉永6年(1853年)制作。 「松月山水図」:弘化2年(1845年)制作。 「江山無儘図」:嘉永4年(1851年)制作。 「日本武尊図」:安政2年(1855年)制作。 また、静岡県立美術館には以下の作品が所蔵されています。 「山水図」:1856年制作。 「山水図」:1852年制作。 「山水図」:1848年制作。 「墨梅図扇面」:19世紀半ば頃の作品。 「李白陶酔図」:1835年制作。 「耕織図」:1845年制作。 「鐘馗嫁妹図」:19世紀半ばの作品。 「鴈門急雨図」:19世紀半ばの作品。 「望嶽図」:19世紀半ばの作品。 評価と影響 平井顕斎は、南画家として中国古画の模写や師である渡辺崋山の作品の模写を通じて、その技量を高めました。彼の作品は、現在も美術館や寺院に所蔵され、その芸術性が評価されています。 |