土佐光貞とさみつさだ
時代 | 江戸時代 |
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カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 絵画 |
プロフィール | **土佐 光貞(とさ みつさだ、1738年8月23日(元文3年7月9日) - 1806年3月23日(文化3年2月4日))**は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した日本の絵師であり、土佐派の重要な人物の一人です。彼は、土佐光芳の次男として生まれ、兄に土佐光淳がいます。幼名は茂松(または茂丸)で、字は士享、別号として廷蘭を用いました。官位は従四位下、左近衛将監、土佐守にまで昇進しました。 生涯と経歴 土佐光貞は、宝暦4年(1754年)に分家し、従六位上・内匠大属に任ぜられました。その後、禁裏絵所預(きんりえどころあずかり)として、朝廷の絵画制作を担当する役職を兄の光淳と共に務めました。彼の昇進は順調で、明和元年(1764年)に左近衛将監、安永4年(1775年)には従五位上・土佐守、寛政4年(1792年)には従四位下に叙せられました。 明和元年(1764年)、明和8年(1771年)、天明7年(1787年)には、大嘗会(だいじょうえ)の際の悠紀主基(ゆきすき)屏風を制作しました。また、寛政度の内裏障壁画造営では、兄の光淳が既に亡くなっていたため、甥の土佐光時に代わり中心的な役割を果たし、自らも清凉殿の障壁画を手掛けました。文化3年(1806年)に69歳で亡くなり、京都市左京区の知恩寺に葬られました。その後、息子の土佐光孚が跡を継ぎました。 土佐派の本家と別家 土佐光貞は、土佐派の中で別家を創設しました。彼の画才は兄の光淳よりも優れていたとされ、その評価も高かったため、後に土佐家は本家よりも光貞の別家の方が繁栄することとなりました。弟子には田中訥言(たなか とつげん)などがいます。 作品と影響 土佐光貞の作品は、若竹鶺鴒図屏風、富士二鷹三茄子図屏風(満願寺所蔵)、浜松図(西本願寺晃章殿所蔵)、伊達政宗像(東福寺塔頭霊源院所蔵)などがあります。彼の作品は、繊細な筆致と優雅な色彩で知られ、土佐派の伝統を受け継ぎながらも独自の表現を追求しました。その影響は弟子や後世の絵師たちにも及び、日本絵画の発展に寄与しました。 土佐光貞の作品は、現在も美術館や寺院に所蔵されており、その芸術性と歴史的価値が評価されています。また、彼の作品に使用された落款印やサインも研究対象となっており、書画の鑑定や美術史の研究において重要な資料となっています。 |