岡田米山人おかだべいさんじん
時代 | 江戸時代 |
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カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 絵画 |
プロフィール | 岡田米山人(おかだべいさんじん、延享元年(1744年) - 文政3年8月9日(1820年9月15日))は江戸時代後期の大坂を代表する文人画家。岡田半江はその子(養子説有り)である。 通称を岡田彦兵衛、あるいは米屋彦兵衛(よねやひこべえ)と称し一説には彦吉とも称したという。名を国、字は士彦(しげん)、画号を米山人、米翁といった。 岡田米山人(おかだ べいさんじん、1744年〈延享元年〉 - 1820年〈文政3年〉)は、江戸時代後期の大坂を代表する文人画家です。 生涯と経歴 前半生については不明な点が多く、生誕地も大坂、神戸、生田村、丹波八木など諸説あります。 若い頃、播磨国神東郡剣坂村(現在の兵庫県加西市西剣坂)の庄屋・安積喜平治のもとで米をつきながら書を読み、詩作に励んだと伝えられています。 その後、大坂に出て寒山寺裏長池(現在の大阪市北区曽根崎付近)で米屋を営み、家業の傍ら書画や学問を独学で学びました。 その才能が認められ、伊勢国藤堂藩の大坂蔵屋敷に仕えることとなり、蔵屋敷内に画室「正帆」を設け、多くの文人墨客と交流しました。 65歳前後で下役を退き、天満橋近辺の別宅に隠居しました。 75歳で妻を亡くし、その後2年間は創作活動が最も旺盛な時期となりました。 享年77。 交友関係 米山人は、木村蒹葭堂、浦上玉堂、田能村竹田、頼山陽、篠崎小竹など、多くの文人や画家と親交を深めました。 特に田能村竹田は、米山人の才能を高く評価し、彼を師と仰いでいました。 画風と作品 独学で中国の文人画を学び、特に元・明・清の画家たちの影響を受けました。 その作風は、拙さの中に古雅さがあり、粗さの中に厚みがあると評され、渾朴で深い趣が特徴とされています。 代表作には、「松下高士図」(57歳の作)、「幽客横琴図」(70歳の作)、「紫霊蒼竜図」(1816年、大阪市立美術館所蔵)などがあります。 現在までに約200点の作品が確認されています。 家族 息子の岡田半江(おかだ はんこう、1782年〈天明2年〉 - 1846年〈弘化3年〉)も文人画家として知られ、父と同様に藤堂藩大坂蔵屋敷に仕えました。 半江は田能村竹田や頼山陽、大塩平八郎ら各界の名士と交遊し、天保8年(1837年)の大塩の乱後、住吉浜に移り住みました。 墓所 米山人父子の墓は、はじめ東高津の直指庵、後に餌差町良専庵に移り、現在は大阪市天王寺区上本町の参玄山妙中寺にあります。 |