田能村竹田たのむらちくでん
時代 | 江戸時代 |
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カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 絵画 |
プロフィール | 田能村竹田(たのむら ちくでん、安永6年6月10日(1777年7月14日) - 天保6年8月29日(1835年10月20日))は、江戸時代後期の南画(文人画)家。旅を好み日本各地を遊歴。詩文を得意とし画論『山中人饒舌』などを著した。 幼名は磯吉、後に玄乗、行蔵。名は孝憲。字は君彜(くんい)。通称は竹蔵。別号は九畳仙史・竹田老圃・竹田邨民・秋心・随縁居士・九峯無戒衲子・紅荳詞人・田舎児・ 藍水狂客・三我主人・西野小隠・秋声館主人など。更に斎号(居室の名)に竹田荘・補拙廬・雪月書堂・対翠書楼など多数。 田能村竹田(たのむら ちくでん、1777年7月14日(安永6年6月10日) - 1835年10月20日(天保6年8月29日))は、江戸時代後期の南画家であり、豊後南画の祖として知られています。 生涯 竹田は、豊後国岡藩竹田村(現在の大分県竹田市)に生まれました。父・田能村碩庵は藩の侍医であり、竹田は幼少期から学問や芸術に親しみました。1798年(寛政10年)、藩校由学館に出仕し、学問専攻を命じられました。その後、藩の命で『豊後国志』の編纂に携わり、領内を巡視しました。この経験が彼の画風に影響を与えたとされています。 1813年(文化10年)、藩を辞し、以降は文人として九州や京阪地域を中心に活動しました。頼山陽、浦上玉堂、篠崎小竹など、当時の著名な文人や画家と交流を深めました。 作風と代表作 竹田は、中国の南宗画法を基盤としつつも、日本の風土や感性を取り入れた独自の画風を確立しました。彼の作品は、詩情豊かで繊細な表現が特徴です。 『稲川舟遊図』:1829年(文政12年)、頼山陽を送別する際、篠崎小竹らと共に稲川で舟遊びを楽しんだ情景を描いた作品です。 『松巒古寺図』:頼山陽のために描かれた山水画で、王蒙の画風を模したとされています。 ウィキペディア 後世への影響 竹田は、多くの弟子を育て、豊後南画の発展に寄与しました。高橋草坪、帆足杏雨、田能村直入らがその代表的な門人です。彼の画論『山中人饒舌』や、交流を記した『竹田荘師友画録』は、後の画家たちに影響を与えました。 竹田の旧宅「竹田荘」は、大分県竹田市に現存し、彼の遺品や作品が展示されています。 田能村竹田は、詩書画に秀でた文人として、日本の南画史において重要な位置を占めています。彼の作品や思想は、現在も多くの人々に影響を与え続けています。 |