今井宗久いまいそうきゅう

時代 桃山時代
カテゴリー 掛け軸,絵画、書画
作品種別 墨蹟
プロフィール 今井 宗久(いまい そうきゅう、永正17年(1520年) - 文禄2年8月5日(1593年8月31日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての堺の商人、茶人。今井出羽守宗慶の三男の子。今井宗薫の父。名は兼員、初名を久秀、通称を彦八郎のち彦右衛門。号は昨夢庵寿林。屋号は納屋。薙髪の後に宗久と名乗った。千利休・津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠と称せられた。

今井宗久(いまい そうきゅう)とは?
今井宗久(1520年〈永正17年〉 – 1593年〈文禄2年〉)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した堺の豪商・茶人です。千利休・津田宗及とともに「天下三宗匠」と称され、織田信長・豊臣秀吉と深く関わった人物でもあります。

1. 今井宗久の生涯

堺の商人として
堺は当時、戦国時代における日本最大の貿易都市であり、自由都市として繁栄していました。
今井宗久は、鉄砲や薬、貴金属などの貿易を行い、戦国時代有数の豪商として大きな影響力を持つようになります。
織田信長との関係
1568年、織田信長が足利義昭を奉じて京都に上洛した際、今井宗久は信長に接近。
信長の庇護を受けることで、堺の自治を保とうとし、堺の豪商としての地位をさらに高める。
豊臣秀吉との関係
1582年の「本能寺の変」後、秀吉に従い、茶道を通じてその信頼を得る。
以降、堺の支配権を確立しつつ、茶人としても名を馳せるようになる。
2. 茶人としての活躍

千利休との関係
今井宗久は、千利休と並ぶ茶の湯の大家。
千利休の「侘び茶」とは異なり、宗久の茶は華やかさを重視したものだったとされる。
「天下三宗匠」
織田信長・豊臣秀吉のもとで、千利休・津田宗及とともに「天下三宗匠」と称される。
織田信長や豊臣秀吉が主催する茶会の企画・運営に関与。
3. 鉄砲商人としての影響

宗久は鉄砲の取引を行い、堺の武器商人としても重要な役割を果たす。
特に、織田信長が使用した大量の火縄銃(長篠の戦いなど)は、宗久を通じて調達されたものが多い。
4. 晩年と死

豊臣秀吉の天下統一後も堺の茶人・商人として活動。
1593年(文禄2年)、堺で死去(享年73歳)。
5. 今井宗久の人物像

商人としての才覚
戦国時代の大名との関係を築き、自治都市・堺の発展に貢献。
貿易や武器商としての側面も強く、政治的な影響力を持っていた。
茶人としての美学
利休の「わび茶」に対し、宗久の茶は「華やかさ」が特徴。
千利休とは異なる路線を持ちながらも、茶道の発展に寄与。
6. まとめ

今井宗久は堺の豪商であり、茶人としても活躍。
千利休・津田宗及と並び「天下三宗匠」として茶道を発展させた。
織田信長・豊臣秀吉と関係を築き、堺の自治と繁栄に貢献した。
鉄砲商人としても知られ、戦国時代の軍事面にも影響を与えた。
今井宗久は、戦国時代において商業と文化の両面で大きな役割を果たし、堺の自由都市としての繁栄に貢献した人物として、歴史に名を残しています。