古田織部ふるたおりべ
時代 | 桃山時代 |
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カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 墨蹟 |
プロフィール | 古田 重然(ふるた しげなり、ふるた しげてる)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。一般的には茶人・古田 織部(ふるた おりべ)として知られる。「織部」の名は、壮年期に従五位下織部正(織部助)の官位に叙任されたことに由来している。千利休が大成させた茶道を継承しつつ大胆かつ自由な気風を好み、茶器製作・建築・庭園作庭などにわたって「織部好み」と呼ばれる一大流行を安土桃山時代にもたらした。 古田織部(ふるた おりべ)とは? 古田織部(1544年〈天文13年〉 – 1615年〈元和元年〉7月6日)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・茶人です。千利休の高弟として茶道「織部流」を確立し、独創的な美意識を持つ「織部焼」の創始者としても知られています。 1. 古田織部の生涯 幼少期と武士としての活躍 本名:古田重然(しげなり) 出身:美濃国(現在の岐阜県) 仕えた主君: 織田信長 豊臣秀吉 徳川家康 古田織部は、美濃の戦国大名・斎藤氏に仕えた後、織田信長の家臣として活躍しました。その後、豊臣秀吉のもとで重用され、秀吉の死後は徳川家康に仕えます。 2. 茶人としての活躍 古田織部は、千利休の高弟として茶道を学び、のちに「織部流」を確立しました。 千利休との関係 織部は、千利休の弟子の中でも特に個性的な茶の湯を好みました。 利休がわび茶を極めたのに対し、織部はより斬新で大胆な茶道を追求。 利休の死後(1591年)、織部は茶道界の第一人者となる。 3. 織部流の特徴 茶の湯 織部流の茶道は「大名茶」とも呼ばれ、武家や豪商の間で流行。 茶室は、利休のわび茶よりも広く、遊び心を重視。 非対称や歪みを取り入れた美学を重視。 織部焼 代表的な陶器のスタイルとして「織部焼」が誕生。 特徴: 緑釉(みどりの釉薬)が特徴的。 非対称で歪んだ形状が多い。 幾何学模様や大胆なデザインが施されている。 織部焼は、当時の侘び茶の概念を超え、斬新なデザインが好まれました。 4. 徳川家との関係と最期 織部は、徳川家康の側近として仕えましたが、1615年の大坂の陣で豊臣家に通じたとの疑いをかけられます。 1615年7月6日、徳川家康の命により切腹。 享年72歳。 彼の死後、織部流は一時衰退しましたが、その茶道と陶器の影響は現在も受け継がれています。 5. 古田織部の影響と遺産 織部焼の現代への影響 現在でも織部焼は、岐阜県の美濃地方で生産され、日本の陶芸文化の一翼を担っています。 アシンメトリーなデザインや遊び心は、モダンデザインにも影響を与えています。 茶道界への影響 「織部流」の茶道は現代にも受け継がれ、京都・東京を中心に一部の茶人が実践。 型にとらわれない自由な美意識は、現代の茶道にも影響を与えています。 6. まとめ 古田織部は、千利休の高弟として「織部流」を確立した茶人。 歪みや非対称の美学を取り入れた「織部焼」を創始し、日本陶芸に大きな影響を与えた。 徳川家康に仕えたが、大坂の陣で豊臣家に通じた疑いをかけられ切腹。 彼の美意識は現代にも受け継がれている。 織部の美学は、今なお日本の陶芸・茶道に深く根付いており、「破天荒な美」を求めた茶人として歴史に名を残しています。 |