上杉謙信うえすぎけんしん
時代 | 桃山時代 |
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カテゴリー | 掛け軸,絵画、書画 |
作品種別 | 墨蹟 |
プロフィール | 上杉 謙信(うえすぎ けんしん) / 上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)は、戦国時代の越後国(現在の新潟県上越市)の武将・戦国大名。後世、越後の虎や越後の龍、軍神と称される。 上杉家の下で越後国の守護代を務めた長尾氏出身で、初名の長尾 景虎(ながお かげとら)でもよく知られている。兄である晴景の養子となって長尾氏の家督を継いだ。のちに関東管領上杉憲政から山内上杉氏の家督を譲られるとともに「政」の1字を与えられて上杉 政虎(うえすぎ まさとら)と改名し、それまで上杉氏が世襲していた室町幕府の重職関東管領をも引き継いだ。後に室町幕府の将軍・足利義輝より偏諱(「輝」の1字)を受けて、最終的には上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)と名乗った。謙信は、さらに後に称した法号である。 内乱続きであった越後国を統一し、産業を振興して国を繁栄させた。他国から救援を要請されると秩序回復のために幾度となく出兵し、49年の生涯の中で武田信玄、北条氏康、織田信長、越中一向一揆、蘆名盛氏、能登畠山氏、佐野昌綱、神保長職、椎名康胤らと合戦を繰り広げた。特に5回に及んだとされる武田信玄との川中島の戦いは、後世たびたび物語として描かれており、よく知られている。さらに足利将軍家からの要請を受けて上洛を試み、越後国から北陸路を西進して越中国・能登国・加賀国へ勢力を拡大したが志半ばで死去した。兜は、飯綱明神前立鉄錆地張兜。 上杉謙信(うえすぎ けんしん)とは? 上杉謙信(1530年2月18日〈享禄3年1月21日〉 – 1578年4月19日〈天正6年3月13日〉)は、戦国時代の武将・大名で、越後国(現在の新潟県)の戦国大名。生涯を通じて多くの戦を戦い、「軍神」「越後の龍」と称された人物です。 上杉謙信の生涯と主要な出来事 1. 幼少期と家督相続 幼名:長尾虎千代(ながお とらちよ) 出身:越後国の戦国大名・長尾為景(父)の家に生まれる。 家督継承:兄・長尾晴景が家督を継いでいたが、家臣団の推挙を受けて1548年に家督を譲られる。 2. 甲斐の武田信玄との「川中島の戦い」 上杉謙信と言えば、宿敵・武田信玄との戦いが有名です。両者は、信濃(長野県)の川中島で5回にわたって激突しました。 主な戦い 第一回(1553年):睨み合いが続き、大規模な戦闘には至らず。 第二回(1555年):両軍が対峙しながらも決着せず。 第三回(1557年):やはり大規模な戦闘は発生せず。 第四回(1561年): 最も激しい戦いとなり、上杉謙信が武田信玄の本陣に斬り込む。 「謙信が単騎で信玄に斬りかかり、信玄は軍配で受けた」という伝説が残る。 戦局は決着せず、上杉軍は撤退。 この戦いは、戦国時代を代表する名勝負とされ、両者は強敵として敬意を払い合いました。 3. 関東出兵と関東管領職 1552年、関東管領・上杉憲政(山内上杉家)が北条氏康(小田原北条氏)に敗れ、謙信を頼って越後へ亡命。 謙信は、上杉憲政から「上杉」の姓を譲られ、正式に関東管領となる。 1560年、小田原城を包囲するも落とせず撤退(小田原城の戦い)。 その後も関東への出兵を繰り返し、北条氏と争う。 4. 織田信長・豊臣秀吉との関係 1576年、謙信は織田信長の拡大を警戒し、越中(富山県)へ進出。 1577年の「手取川の戦い」で、織田軍を撃破。 この後、上洛を目指していたが、翌年突然死去。 上杉謙信の死 没年:1578年(天正6年) 死因: 脳卒中(脳溢血)説が有力。 享年49歳。 謙信の死後、養子の上杉景勝と上杉景虎が後継者争い(御館の乱)を起こし、上杉家は混乱する。 上杉謙信の人物像 1. 戦上手な戦国武将 戦国最強の戦上手とも評される。 戦術に優れ、特に防衛戦や電撃戦に強かった。 2. 戦国の「義将」 「義」を重んじた武将として知られる。 領民や家臣に対しても公正に接し、無益な戦を嫌ったとされる。 敵であった武田信玄が病に倒れた際、塩を送った「敵に塩を送る」逸話が有名。 3. 戦国時代では珍しい「僧侶のような生活」 謙信は生涯独身を貫き、酒と戦を好んだ。 一説には「女人禁制の生活を送っていた」ともいわれている。 上杉謙信の名言 「義によって立つ」 → 義を重んじる謙信の信条を表した言葉。 「運は天にあり、鎧は胸にあり、手柄は足にあり」 → 戦場における心得を表した言葉。 まとめ 上杉謙信は、戦国時代を代表する名将であり、特に戦の巧みさと義を重んじる姿勢で知られています。武田信玄との川中島の戦い、北条氏や織田信長との戦いを繰り広げながら、関東管領としての責務も果たしました。彼の死後、上杉家は混乱しますが、その名声は現在も語り継がれています。 |